乱華・藤

□島左近
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【生没】
1540年(天文9)?〜1600年(慶長5)?

【別称】
清興・勝猛・友之・昌仲

【本拠】
大和筒井城→近江佐和山城


「左近」は通称。
筒井氏などに仕えたあと、石田三成の家臣となる。左近を迎えるにあたって三成は自分の領地の半分近く差し出したという。
「三成に過ぎたるもの、島の左近に佐和山の城」と謳われた三成の家臣団の中でも、もっとも知名度が高い武将であるが、その前半生は謎が多く、出自に関しても、大和出身とも南山城出身とも伝えられている。筒井順慶に仕え、森氏、松倉氏と共に筒井氏の重臣として、順慶を支えた。彼の居城である椿井城は平群谷(へぐりだに)を挟んで、松永久秀の信貴山城と目と鼻の先であり、木沢氏や松永氏など河内からの侵攻に対しては最前線として戦っている。
順慶の死後は、筒井定次に従って、加賀でも二千石を加増されたが、家臣というよりは、豊臣家の目付としての立場であったようである。後に、筒井家譜代の中坊氏などと対立し、筒井家より離れている。筒井家退転後の左近は、椿井城一万石の所領をもって、他の大和国衆と共に、豊臣秀長に仕えている。秀長の死後は近江高宮に浪人しているところを三成に召し抱えられたと言われている有名なエピソードがあるがあるが、三成の知行四万石のうち、半分の二万石で招いたというのは、三成が水口城主になった時期や、正式には佐和山城主になったのが、豊臣秀次死後であることを考えると江戸時代の創作である可能性が高く、実際には、大和代官として豊臣家直臣であった左近が三成に与力としてつけられ、後に家臣となったのであろう。関ヶ原の戦いでは杭瀬川合戦などで中村一忠隊を敗走させるなどの活躍を見せたが、決戦当日に黒田長政隊に狙撃され負傷、戦後も死体は見つからず、行方がわからなかったため、各地に左近の墓といわれる場所が伝承されており、生存説もある。
 

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