乱華・藤

□舞兵庫
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【生没】
1560年(永禄3)〜?

舞兵庫という名前は通称であり、本姓は前野忠康である。
尾張の前野一族に生まれ、秀吉創業の臣である前野長康の娘婿となった忠康は、豊臣秀次の黄母衣(きほろ)衆13人の一人となり、各地で戦功を重ねる。しかし、主君の秀次が秀吉の怒りに触れて切腹、岳父の長康も連座したあとは、名を舞兵庫と変え(一説では、母親で京の遊女であった舞姫から取ったともいうが、真偽は定かではない)、石田三成に匿われたのち、五千石にて仕える。家中では、島左近・杉江勘兵衛と並ぶ重臣であった。関ヶ原合戦においては、一族である尾張の小坂一族を三成方の味方させるべく、活動していた事が、小坂一族の子孫によって書かれた〈武功夜話〉に書かれている。
この調略は不首尾に終わったが、合渡川の合戦においては、少数ながらも獅子奮迅の活躍を見せる。しかしながら、多勢の前には抗しきれず、美濃梅野の地にて戦死する。しかし、死体は見つかっておらず、首実検でも兵庫の首はなかった事から、その死は謎のままである。また彼の一族や家族の多くは、藤堂高虎によって庇護され、藤堂家や生駒家の家臣となっている。 一説では、生駒騒動で有名な前野助左衛門は、兵庫の嫡子であるという。
 

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