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□美しく燃える森
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新八が出て行った部屋で、坂田は一人で横になる。見上げた天井の染みは、人の顔のようにも見えて不気味だ。
やっぱり気持ちを伝えたのは失敗だったと、思う。
あの時の新八の表情を見て、自分への信頼が、彼の中で崩れて行ったのがありありと見えた。
本当は言わないつもりだった。あの、少し幼く見える青年の隣には、可愛らしい女性が似合う。何もわざわざ横道に逸れるような真似をさせるつもりは無かった。だから新八のことを考えないように、いろんな人間とお手軽な恋愛もどきをしていた。新八以外の人間は、坂田にとって等しく平等だ。だから平気で浮気もできた。
だけど、そこに一人の男が踏み込んできてから、事態は変わった。
学生のころから高杉は人と違っていた。常に人よりも一歩前を歩いて、自分のなし得ないことを平然とやってのける。男としても、科学者としても、坂田は高杉の先に行けた試しはないと思っている。新八は坂田が高杉を嫌っていると思っているようだが、坂田は別に高杉を嫌っているわけではない。
ただ。
好きなやつくらい、渡したくねーと思うのは当然だろ。
煙草の灰が落ちそうだ。坂田は煙草を口から離し、空き缶の口に押し付けてその火を消した。
相手は男であれ女であれ、それなりに恋はしてきた。だけど、どれだけ相手を想っても最後は皆離れて行ってしまった。それなら最初から恋なんてしなければいい。科学と違って恋は理屈が通らない。厄介だ。
そう思っていたのに、新八には惹かれた。
どうしてだろう、と思う。あんな地味で、どこにでもいそうな奴。
「あー…くそっ」
高杉の、新八への執着から考えるに、きっと高杉も自分と同じ感情を新八に抱いている。それに気付いて気持ちが逸った。結果新八を怖がらせた。
だけど、ただ黙って見ているなんて出来なかったのだ。
同じ研究室になって、毎日会えるようになって、どれだけ嬉しかったか。あの笑顔にどれだけ救われてきたか。
触れたくて。でも触れられなくて。新八の前では必死に気持ちを押し殺してきた。近くにいられるだけでいいなんて、柄でも無いことを思っていた。純粋に彼の幸せを祈ろうと、そう努めてきたのだ。それが高杉が現れただけでこのザマだ。新八の気持ちを考えずに気持ちを押し付けて、それが新八にとって迷惑にしかならないことなど分かっていたのに。
坂田はごろりと体勢を変えて、肘をついた。自分の寝転がる場所のすぐ隣に、さっきまで新八が眠っていたと思うとたまらなくなった。
あんなに近くにいて、手を伸ばすなと言うほうが無理な話だ。
それで新八の信頼を失ってしまうと分かっていても、触れずにはいられなかった。
「明日…」
新八が坂田の実験を手伝ってくれるのは明日までだ。明後日には、高杉が帰ってくる。
明日、新八は来てくれるだろうか。
「おはようございます」
そう挨拶した新八の顔に、坂田が目を丸くした。実験の準備をしていた手が止まる。
「お…お、おはよ」
「…なんですか、その顔」
僕が来ちゃ悪いんですか、と、新八は実験台の上に荷物を置いた。
「いや、悪かねーけど…」
来てくれるとは思っていなかった。嬉しさがこみ上げる。じっと新八を見ていると、新八があからさまに顔をそらした。
「今日までですからね、実験の手伝い。約束は守りますよ」
ああ、そうか。そういうことか。変なところで律儀だよなあ、こいつ。
どうせなら、来てくれない方が、妙な期待をしないで済んだのに。
坂田は視線を手元に戻して作業を進める。
新八は着ていたジャケットを脱いで、白衣に袖を通す。ジャケットを脱いだ時にふわりと香る新八の匂い。
そこに微かに混じる、あの男の煙草の匂い。
「新八」
坂田が、その姿勢のままで新八を呼ぶ。視線は向けない。新八はきっとこっちを見ている。
「…何ですか」
いつもと変わらないように聞こえてもそこに少しの緊張があることに、坂田は気付いた。
「お前、高杉のことどう思ってんの?」
視線はそのままに。答える新八の顔は見たくない。自分の予想通りなら尚更。
「……どうって、高杉先生は指導教官ですよ」
新八の答えは、坂田の予想と異なっていた。
「…本当に?」
「嘘ついてどうするんですか。先生は僕の指導教官です。それ以上でも以下でもありません」
抑揚のない声は、本心だろうか。それとも。
「本当に何にもないの」
「ありません」
きっぱりと言い放つ言葉に逆に疑いが生じる。坂田は新八に目を向ける。張りつめた空気を新八から感じた。
これ以上詮索するなという、警告。
自分の中に入ってくるなという、拒絶。
新八の目が、そう言っているように見えた。
「…じゃあ、実験始めましょうか」
だけどここで引き下がるわけにはいかない。踏み込みたい。お前の心を知りたい。
俺だって、お前のことが好きなんだよ。
「新八」
坂田は立ちあがって、背を向けている新八の腕を掴んだ。新八の体が固くなったのがわかった。
「なんですか」
それでも平静を装う新八に、悲しくなった。
「昨日は悪かった。でも、俺本気だから」
「…本気?」
「本気で新八のこと好きだから」
新八は坂田を見ようとしない。坂田からは、新八の耳元しか見えない。
「僕は、…坂田さんのことをそういう風には見れません」
新八が口にした言葉は予想していたが、それでも坂田をどん底に突き落とすには十分だ。坂田は、ゆっくりと手を離した。
「……き、なんて、」
離した新八の腕が力なく揺れる。
「…好きなんて、どうして言ったんですか」
飛行機を降りた瞬間に感じたこの国独特の湿気は、部屋に着くまでに慣れてしまった。高杉は、大きなスーツケースを手に、二週間ぶりの自分の部屋の前に立っていた。部屋の鍵を使うのも二週間ぶりだ。
鍵を開けると玄関に見慣れた靴がそろっている。今の時間はまだ大学にいるはずだ。
訝しみながら革靴を脱いでいると、奥から足音が聞こえた。高杉は顔を上げた。
「おかえりなさい、先生」
二週間振りの新八の笑顔を見て、高杉は帰ってきたと自覚する。今までは長いことどこかに行って、帰ってきたとしても大した感慨はなかった。おかえりなさい。その言葉は幾度となく耳にはしてきたが、こうやってはっきりと自分に向けられるのは心地が良い。
「ああ」
それでも高杉は、ただいまのひとつも言わない。新八は黙って高杉の持っていた鞄を受け取る。
「どうでした?学会」
「大して面白くもなかったな。飛行機は長ぇし」
ぶっきらぼうにそう言って高杉は室内に上がる。
「お前こそ何やってんだ。銀時の実験手伝ってるんじゃなかったのか」
それが一番気にかかっていた。坂田の手前ああは言ったものの、自分のいないところであの男が動く可能性は高い。
「ああ…」
坂田の名前が出た途端、新八の顔がわずかに曇った気がした。
高杉の胸の中でじわりと何かが染み出す。薄汚く濁った何かが高杉の心を侵食する。高杉は、注意深く新八の様子を観察した。
銀時と、何かあったのか。
「昨日までだったんで。今日は早く帰って来れたんです」
ソファーに座った高杉に、新八は背を向けた。顔を見られたくないのだろうか。何か隠し事でも?そうは聞けない自分がいる。じわりじわりと、それはその範囲を拡大して男を蝕んでいく。高杉はネクタイを緩めた。
キッチンに戻った新八がコーヒーの入ったカップを持ってきて、それを高杉に手渡した。高杉の隣に新八が座る。二人の間の距離が、前より少し広がっている気がする。
「…今日、バイトは」
「バイトもないんですよ。大学院に上がったんで、シフト減らしてもらいました。バイトばっかりしてたら研究進まないし」
高杉は、新八を酔っ払いからかばったことを思い出した。本当はあんなところでバイトなどさせたくない。
「いっそのこと辞めちまったらどうだ」
「それは出来ないですよ。授業料払えなくなっちゃう」
「そんなもん、俺が出してやる」
新八が望めば高杉は迷いなくそうするつもりでいた。新八をそばから離したくない。離せない。新八をそばに置くためなら金など惜しくない。
「ちょっと…それは…」
新八が、困惑の混じる顔で曖昧に笑う。
「高杉先生にはいくらお礼を言っても言い切れないくらいお世話になってます。流石にそこまでしてもらうのは…」
やんわりと拒絶する新八に苛立った。
坂田との関係。拒絶する新八。自分の中で濁っていた何かがその色を濃くして、渦巻いていくのを、高杉は感じた。
「いつまでも高杉先生のところにいるわけではないですし」
新八が自分から離れようとしている。
高杉は隣に座る新八の肩を押した。その体がソファーの上に倒れる。高杉はその上に跨った。
「せんっ……んっ!」
唇を押し付ける。新八のYシャツの下から手を伸ばす。
「やっ…!だっ!」
新八が高杉の肩を両手で強く押しのける。全力の抵抗だ。初めてのことだった。高杉がどこで求めてこようとも、新八が抵抗したことはない。高杉の苛立ちがますます募る。
高杉は緩めたネクタイに手をかけて自分の首から解いた。
「大人しくしてろ」
高杉を拒絶する新八の両手を、頭の上にまとめ上げる。自分を拒絶する手など要らない。
高杉の目的を察知した新八の顔色が青ざめた。
「いっ…やだっ!はなしてっ!」
高杉より若いと言えど、その体格にはかなりの差がある。高杉は抑えつけた新八の両手首にネクタイを巻きつける。ぎり、と締め上げて固く結んだ。これで抵抗も止むだろう。
「先生っ、やめてっ…!」
抵抗を無くすと思っていた体はまだ悪あがきを続けている。いつものように自分の意のままにならない新八に神経を逆撫でされる。と同時に、乱れたYシャツに縛られた腕が征服欲を掻き立てる。高杉は新八を見下ろして、
「逆らうってのは、契約違反じゃねぇのか?」
切り札を口にする。
新八の目の中の、瞳孔が小さくなった。動揺している。しかしそれはすぐに高杉を真っすぐに射抜いて、
「こんな関係、…間違ってますっ!」
高杉をまた、拒絶した。
「…そうかい」
頭の中で警鐘が鳴り響いている。これ以上はするな。傷付けるな。そばに置いておきたいのなら。
傷付けるな?
新八は俺のものだ。傷つけようが何しようが勝手だ。
「先生っ、僕は…」
新八のその先の言葉を聞きたくなくてもう一度唇を押し付けた。
高杉は、新八のYシャツのボタンに手をかけた。
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