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□Baby I Love You
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「たでーまー。」
万事屋の玄関に銀時のけだるい声が響いた。
「おかえりなさーい。」
返事を期待したわけではないが、奥の台所から新八の声が返ってきた。五月の終わり、今日の気温は大分上がった。
ブーツを脱いでいると、近づいてくる小走りの足音。
「おかえりなさい、銀さん。」
割烹着の前で濡れた手を拭きながら、新八はもう一度言った。
「今日暑かったですねー。」
今日の気温は真夏日のそれに近い。外で立っているだけで額から汗が噴き出したことを思い出す。
「もーすげー汗でべたべた。」
「お風呂沸かしといたんで、夕飯前に入っちゃったらどうですか。」
「そーするわ。」
銀時は脱いだブーツをそのままにして、玄関に上がる。新八は風呂に向かう銀時の背中を一瞥して、ブーツを揃えようとしゃがみこんだ。
「ちょっと靴脱いだらちゃんと揃えてくださいって…ってくさぁっ!!ブーツくさっ!!」
ブーツから漂う異臭に、新八が鼻をつまんで顔を背けた。
「うっせーなぁ。しゃーねーだろこのあちー中じゃ蒸れちまうんだよ。少女マンガの王子様じゃあるめーし足も臭けりゃ脛毛だって生えんだよ、俺ぁ。」
振り向きもせず銀時は事も無げに言った。
「あー頭もなんかかいーなー。」
ぼりぼりと左手で後頭部を掻くと、汗で少し湿っているのがわかる。
「あははーアンタが王子様なんてそんな漫画売れないに決まってるじゃないですかー。」
新八が軽く言った。その笑顔に悪意はない。
「え、何言っちゃってんの新八君。銀さん王子様になったら髪がストレートになるんだよ?モテモテだよ?」
「後から着替え持ってきますねー。」
新八はまた小走りで台所に戻っていった。
「……………………天然毒舌のうえに放置プレイなの新八君。」
銀時が風呂から上がると、テーブルの上にはすでに二品のおかずが用意されている。今日のおかずは鶏手羽と卵のしょうゆ煮と、春キャベツの味噌和え。新八が食事当番の時だけ、万事屋の食卓には一般家庭と同じようなおかずが並ぶ。銀時はやる気になればそれなりのものは作れるが面倒くさがって滅多にこういったものは作らないし、神楽に至っては卵かけご飯が出てくればまだ良い方だ。
「髪の毛ぐらい、拭いてきてくださいよ。」
お盆にお茶碗三つと味噌汁の入ったお椀一つ、空のお椀二つを乗せて、新八が居間に入ってきた。言葉だけ見れば咎めているように見えても、その口調はあまり気にしていないようにも聞こえる。
タオルをかぶっているとはいえ、よく水気が切れていないのか、銀時の髪の毛からは水の雫が滴り落ち、彼の足元に小さな水の玉を作っていた。
「自然乾燥だよバカヤロー。こうやって自然にさらすことによって俺の髪はサラッサラに」
「そうやって自然に捻じ曲がったんですねわかります。」
「……。」
銀時は何も言わずに髪を拭いた。
新八は銀時の横を通り過ぎて、テーブルの横に座り、お盆を置く。
「銀さん神楽ちゃんと定春見ませんでした?五時までには帰って来るように言ったんですけど。」
茶碗とお椀をテーブルに並べる手を休めずに、新八は言った。銀時が時計を見やるともう六時半を過ぎている。
「いや見てねーよ。どーせその辺で遊んでるんじゃねーの。」
「そうですか。」
新八は立ち上がって、割烹着を脱いだ。
「銀さん先食べちゃってくださいよ。僕神楽ちゃん帰ってきたら一緒に食べますんで。」
銀時の前には、湯気を立てる味噌汁のお椀が置かれている。新八は銀時の茶碗に炊き立ての白米をよそい、手渡した。
「おめー神楽なんかと一緒に飯食ったらあいつに根こそぎ全部食われるだけだぞ。」
銀時はそれを受け取り、テーブルに置く。箸を持とうとはしない。その様子を見て、新八が言った。
「…銀さん仕事してお腹減ってるでしょ。食べちゃっていいですよ。神楽ちゃんの分残してあるんで。」
脱いだ割烹着を丁寧にたたみ、銀時が座る反対側のソファへ移動して腰を下ろす。
「べっつに待ってなんかなくたっていいだろーが。いねぇあいつがわりーんだよ。」
「だからそう思うんだったら先食べちゃっていいですってば。」
新八は自分のひざに頬杖をつき、小さくため息をついた。
「僕が神楽ちゃん一人で食事なんかさせたくないだけですから。」
銀時が、普段死んだ魚みたいと言われるその両目を見開いた。
「…なんですか、その顔。」
「…いやぁ?」
しかしまたその目は死んだ魚のそれに変わった。新八は銀時の視線からフイと顔を背け、玄関の方向を見やった。
「んな心配しなくたって、すぐ帰ってくるよ。」
「そんなこと言って、誘拐でもされてたらどうするんですか。」
「あんな爆弾娘、誘拐できるやつを俺は尊敬するね。崇め奉るね。なんなら300円あげちゃうね。」
「…300円で崇め奉れる気でいる銀さんの厚顔無恥ぶりを僕は尊敬しますよ。」
「300円で何が買えると思ってんだコノヤロー。チロルチョコ30個買えんだぞ。」
「税込み5%で計算すると28個です。」
「残念でしたぁー。銀さんは免税店でチロルチョコ買うから消費税払わないんですぅー。」
「そこまで行く交通費考えたらそっちのが高くつくと思いますけど。」
「男なら欲しいものくらいテメーの足で歩いて買ってくんだよ。だからおめーはダメガネなんだよ。」
「…僕ダメガネって言われてまでチロルチョコ食べたくないんで。」
会話が途切れた、その瞬間。
銀時のデスクの上にある電話がけたたましく鳴った。新八の体が、びくり、と反応したのを銀時は見た。
電話が鳴り続ける。
「…僕、出ますね。」
ソファから立ち上がって、新八は銀時に背を向ける。銀時はその後姿を見つめる。新八が受話器を取り上げ、右耳にあてる。
「はい、万事屋です。」
銀時はすぐに視線をはずし、くわぁ、とひとつあくびをした。
「…え?…あ、はい!すいません!来週までには必ず…」
相手の声は聞こえないが、新八の発する言葉の端々から想像するに下のお登勢だろう。大方家賃の請求に違いない。
「すいません…はい…はい…伝えておきます。失礼します。」
そう言って、新八は電話を切った。振り向いた顔は困ったように笑っていた。
「銀さん、先々月から家賃払ってないでしょう。お登勢さん怒ってましたよ。」
「しゃーねーだろ。ねぇもんは払えねー。」
耳の穴に小指を突っ込みながら、銀特は答えた。新八は銀時のその意に介さない態度にもろくに反応せず、ソファに戻ってまたひとつため息をついた。
銀時のお椀の味噌汁の湯気はもう消えている。
時計の針は、午後六時五十三分を指している。
「ただいまヨー。」
神楽の声が万事屋に響いたのは、七時も十五分を回ってからだった。
声を聞くなり、ソファで体育座りをして自分のひざに顔をうずめていた新八が玄関へ飛び出していった。
その後姿を目で追いながら、銀時は息をついた。
「神楽ちゃん!」
「あ、新八。ただい…」
「こんな遅くまでどこ行ってたの!?」
「よ、よっちゃん達と遊んでたアル。」
いつも新八には尊大な態度を取るのに、新八のあまりの剣幕に神楽はたじろいだ。
「五時までには帰って来るんだよって言ったでしょ?」
「だって…気づいたら五時過ぎてたアル。」
「だってじゃない!」
新八の声に、神楽の肩が震えた。
「ちゃんと約束したよね?帰ってくるって。なんで約束守れないの?」
新八の口調は、明らかに約束を守らなかった神楽を責めている。その言い草が神楽の癇に障った。
「…いちいちうるさいアル。」
「え?」
その小さな声を聞き取れず、新八は少ししゃがみこんで神楽の顔をのぞき見る。神楽は下に向けていた視線をギッと新八に向け、
「いちいちうるさいアル!!新八にそんなこと言われる筋合いないネ!!」
今度は新八がたじろぐ番だった。神楽はその口でさらに続ける。
「ちょっと帰る時間が遅れただけでうざいアル!!新八のくせに!!」
神楽の反抗的な態度に新八も頭に血が上る。
「なっ…!!神楽ちゃんが約束の時間に帰ってこないから…」
「そんな約束、守るなんて言った覚えないアル!!」
「…っ!!じゃあもういいよ!!神楽ちゃんなんて知らないからね!!」
新八はそうはき捨てて、神楽に背を向けて居間に戻っていく。その途中で、新八と神楽の怒鳴りあう声を聞いて玄関に向かっていた銀時に鉢合わせた。
「何ケンカしてんだよおめーら近所迷惑…」
「今日は僕もう帰ります。」
そう一言、言って新八は銀時の横を通り過ぎた。
「帰るっておめー飯食ってねー…」
「家で食べるんで。」
手早く帰り支度を済ませ、風呂敷を包む。その新八の姿を見つめる銀時の横を、さらに神楽が通り過ぎた。
「神楽腹減って…」
「ないアル!!」
銀時の顔も見ないで神楽が答える。そのまま自分のテリトリーである押入れにもぐりこみ、スパンッ、とふすまを閉めた。
「お疲れ様でした。」
同時に支度を済ませた新八が、再び銀時の横を通り過ぎて玄関へ向かう。
「…いいのかよ?待ってたんだろ?」
玄関で草履を履く新八に、銀時は声をかけた。
「いいですよ。心配した僕が馬鹿でした。」
草履を履き終わり、新八が立ち上がって玄関を開ける。
「じゃあ…おやすみなさい。」
そう言って銀時を見、すこし眉を八の字にして、新八は薄く微笑んだ。すぐに背を向けて後ろ手に玄関に手をかけた。
カラカラカラ、ピシャン。
玄関の閉まる音。
カンカンカン。
新八の階段を下りる足音。
神楽を宥めることもできず、新八を追いかけることもできず、銀時はその場に立ち尽くしていた。
「飯、どーすんだよ…。」
新八が作った鍋いっぱいの鶏手羽と卵のしょうゆ煮は冷め切っている。
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2010.5.27 月見 梅