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□めくれたオレンジ
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昨年の夏から相変わらず高杉の部屋には通い続けている。新八は大学四年に進級し、大学生活最後となるであろう四月を迎えた。
そして希望通り、新八の指導教官は高杉になった。
「え?高杉先生につくのって、僕だけなんですか?」
顔合わせのため、高杉の居室に来た新八は驚いた。例年、一人の指導教官につき三、四人の学生がつくのが普通だ。人気のない高杉とは言え、自分以外にももう一人くらいはいるだろうと思っていたのに。
「他にも何人か希望してきたがな、お前以外は落とした」
確かに教官には学生を断る権利はある。しかし大体は希望が通るものだ。受け入れる教官側も、研究の「駒」となる学生は絶対欲しいはずなのに。高杉の真意がわからない。
「な、なんで、」
「成績が悪かったから落としただけだ」
高杉は自分のデスクのいすにゆったりと腰をかけて、煙草をふかす。黒の革張りの椅子がぎしりと音を立てた。白衣の白が、椅子の黒に良く映える。
新八は高杉の講義こそ最高評価をもらったが、その他はさして大した成績ではない。単位こそ落としていないものの、全体として見れば上位には入らないだろう。
その自分だけが、何故?
希望した他の学生の成績がよほど悪かったのだろうか。
「とにかく今日からおめーは俺の下だ。指示には従ってもらう」
高杉はデスクの上にばさりと分厚い書類を置いた。
「いくつか絞っておいたから、その中から自分で卒業研究のテーマを選べ」
「はぁ…」
新八はその書類を手に持った。紙の束はずっしりと重たい。ぺらぺらとめくって中を見ると、一つ一つの研究テーマについて詳細に述べられている。
自分のために高杉がこれを用意してくれたと思うと新八は嬉しくなった。期待されていると思ってもいいだろうか。
僕はあなたに近づけているだろうか。
「三日後にミーティングして卒業研究の方針を固める。それまでに決めておけ」
「…はいっ!」
新八は思い切りの笑顔で返事をする。
高杉はすぐにその顔から目を背けた。
高杉からもらった資料を手に研究室に戻ると、携帯電話が鳴った。
「もしもし?新ちゃん?」
電話越しから聞こえてきたのは、久しぶりの姉の声。
「姉さん?どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわよ。結婚式以来一つも連絡よこさないから心配になって電話したんじゃないの」
新八は他の学生や研究員の邪魔にならないよう、携帯電話を耳に当てたまま、研究室から廊下に出た。
「ごめん。最近忙しくて」
廊下の窓からは、大きな桜の木が連なる並木道が見える。姉さんにも見せてあげたい。
「大丈夫?ちゃんと食べてるの?体壊したりしてない?」
「うん、大丈夫。ちゃんと食べてるし、体も何ともないよ」
昔から姉の妙は、新八に対して過保護なところがあった。それは親がいない分新八をしっかりした人間にしなければいけない、という気負いを感じていたから、新八は姉に対して逆らったり、反抗したりしたことはない。
「大学はどう?卒業できそうなの?就職は?」
「うん…そのことなんだけどね、姉さん、」
窓の枠に手を置いて、新八は少し窓を開けた。
「僕、大学院に進学しようと思ってるんだ」
高杉に会ってから、ずっと考えていたことだった。もちろん、早く就職したい気持ちはある。だけどそれ以上に高杉の下にいたいという思いが新八を後押しした。
「大学院?」
姉の声色が変わった。怒りではないが、心配しているのがわかった。
「大学院って…またお金がかかるんじゃないの?大丈夫なの?」
姉の心配している顔がありありと浮かぶ。幼いころから何度も見てきた。
「うん。なんとかなると思う。姉さんに迷惑はかけないから、心配しないで」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ。新ちゃんは一人で頑張るから…」
一人で頑張っていたのは姉さんだ、と新八は思う。と同時に、そんな姉にずっと頼ってきた自分の不甲斐なさを申し訳なく思った。もう姉には頼らない。
「姉さんこそ僕じゃなくて、義兄さんを心配してあげなよ。転勤したばっかりじゃない」
出来れば新八は、姉の生活を邪魔したくはない。今まで姉弟二人で生きてきて、やっと得られた家庭を姉には大切にしてもらいたい。そこに自分がいないとしても。
「あの人も新ちゃんのこと心配してるわよ」
新八は豪快に笑う姉の夫の顔を思い出した。きっとあの男なら姉を幸せにしているのだろう。
姉の幸せの足枷にはなりたくない。
「僕は一人でも大丈夫だから」
そう言って新八は電話を切った。
僕は大丈夫。今まで二人だったのが、一人になっただけだ。大して変わらない。
新八は開け放した窓を、ゆっくりと閉めた。
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