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□夜叉は眠る
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戦争が終わっても、「眠る」という行為ができなかった。
正確に言えば、眠ることができないわけじゃない。例えば肉体労働に従事して一日中体をいじめ抜き、泥のように疲れきった体を布団へ沈めればすぐに睡魔は強烈な誘い香を放ちながらやってくる。そして導かれるままその手を取れば、たちまち現実世界から離脱できる。
そんな風にして一応の眠りにつくものの、ここからが問題なのだ。目をつむり、眠りの世界に旅立てば、それは音もなく俺に忍び寄り、眠りの世界のさらに奥深く、一度足を踏み入れれば出ることは叶わない閉ざされた森へ引きずり込もうとする。
そして俺はそこを知っている。ただ暗く、生き物の気配もすらない、無音の森。どこまでも続く木だと思えばそれは力なく枝に垂れ下がる屍。地に落ちて腐りかけているものもある。俺はその中に知った顔を見つける。あの戦争のとき、敵に斬られ死んでいった仲間たちだ。
『どうして助けてくれなかったんだ』
『何故お前だけが生きている』
『お前は俺達を見捨てて逃げ出した、卑怯者だ』
死んでいるはずなのに、そいつらは乾きひび割れた口で煩く俺を罵る。そして黄色くなってしまった眼で睨みつけ、俺に手を伸ばす。そこで目が覚める。そのときにはもう朝だ。
「またかよ…」
こんな夢を毎晩見させられてはどんなに眠っても寝た気になんてなれない。俺は額に手をやった。じっとりとした汗の感触がする。過ぎてしまった過去にかまけて感傷に浸る趣味はないと思っていたが、こんな有り様じゃあそんなカッコつけたことは言えない。
参ったな、と俺は一人きりの部屋の中でぼやいた。
そんなある日、冴えないガキに会った。レジ打ちの一つもできない地味なメガネ少年だ。
「ここで働かせてください」
俺がいいともダメだとも言わない間に、少年は俺の元へと転がりこんできた。ずっと一人だったからこの部屋に誰かがいること自体に違和感を覚えたが、少年はすこぶるよく働いた。とは言っても、依頼なんて滅多にこないから主にうちの家事全般に関してだが。
特に少年が力を入れたのは、一人好き勝手に暮らすうちに荒れに荒れた部屋の掃除だった。
「部屋がホコリだらけだったり汚かったりするとそれだけで気分が滅入るもんですよ」
「へぇ、そーかね」
「そうですよ。ホラ、こうやって窓を開けて、新しい空気を入れてあげるんです」
少年が水仕事で荒れた手で窓を開ける。冷たい風が入り込んできて、俺は着物の袖に両腕を突っ込んだ。なるほど、確かに部屋の空気が変わった気がする。
「…雇ってもらった身でこんなこと言うのも失礼ですけど、よく今までこんな状態で暮らしてましたね」
少年は振り向き、ふすまにもたれぼんやりしていた俺に言った。口調から呆れているのがわかった。その前に俺は雇う、なんて一言も言ってない。
「どっか体調悪くしたりしませんでした?」
しかし、すっかり雇われた気になっている少年はそんなことよりも部屋の汚さが気になったようだ。「この窓も拭かないとですねえ」と眉をひそめ呟いた。
「あー…そういや最近、寝つき悪いかも」
「やっぱり。じゃあ今日はゆっくり眠れますよ。自分で言うのも何ですがかなりキレイになりましたから」
少年が自信ありげに笑う。部屋が綺麗になったくらいで寝れるなんてそんな馬鹿な、と思ったけど、なんだか水を差すようで悪いから言わないでおいた。どうせ今日もあの夢を見るんだろう。
しかし少年の言ったことは本当だった。その日、俺はあの無音の森の夢を見なかったのだ。だけど変わりに変な夢を見た。
真っ白い部屋に、俺一人の夢。
「なんだこりゃ」
部屋の真ん中には椅子が横一列に置かれている。三つの椅子。大きいのと小さいのと中くらいの。俺はとりあえず、自分の体格に一番合っていそうな大きな椅子に座る。夢だとわかってはいるが、やたらとしっくり馴染む椅子だった。
俺は横を見た。となりには小さいのと中くらいの椅子。もしかして俺以外の誰かが座るんだろうか。だけど白い部屋を見回しても、俺の他には誰もいない。3つの椅子と、俺、ただ一人。
部屋にはドアがあった。あそこから誰かが入ってきて、誰かが椅子に座ってくれる。俺は期待しながらドアが開くのを待っている。
俺の期待に応えるように、ドアノブが、がちゃりと回った。
ドアはゆっくりと開く。一体誰だろうか。誰がこの部屋に来てくれるんだろう。俺と一緒にこの椅子に座ってくれるんだろう。
俺はソイツの顔を見た。
「坂田さん、もう朝ですよ」
呼ばれ目を開けば、昨日のメガネ少年がやたらでかい目で俺を覗きこんでいた。
「………あれ?」
「どうですか?よく眠れました?」
俺は少年の問いには答えず体を起こす。気のせいかもしれないけど、体もなんだか軽い。
「寝てる間にお客さん来ちゃったらどーするんですか」
「…あー、…お前、いつ来たの?」
「?…今さっきですよ。それが何か?」
少年はあっと言う間に俺から布団を引っ剥がしてそれを抱え上げる。
「おい何すんだよ、寒いじゃねーか」
「こんな時間まで寝てて何言ってんですか。こんなにいい天気なんだから布団を干すんです」
そう言い残して少年はベランダの方へと向かう。開け放たれた窓からは嫌みな程に眩しい太陽の光が目の奥までをも突き刺してくる。
俺は立ち上がり、少年の後をついてベランダに向かう。少年は歌と言えるかどうかもわからない変な音程を口ずさみ、布団を干している。
朝の白い光の中、少年は振り向いた。その姿が、さっきの夢を思い出させる。
俺一人だった白い部屋、ドアを開けてやってきたのは。
「…まさか、お前?」
「はい?」
「…いや、何でもねえ。こっちの話」
「?」
「どうせなら結野アナがよかったなー」
「意味はまったくわかりませんが、なんか腹立つんですけど」
それは今夜確かめよう。きっと夢の中のあの部屋はもっと騒がしくなる。俺は一人じゃなくなる。そう確信した。
今夜もまた、いい夢が見れるといい。
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