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□その男、江戸をも焼き尽くす業火と親しき仲。
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「もう春になるのに寒いなぁ」
江戸のとある甘味処の看板娘、有里が甘味屋から通りへ出て息を吐く。
肌に冷たい風が当たった。
しかし寒かろうが町の活気があるのが江戸の町。
昼時になった城下町は仕事を昼休みにした人で溢れかえっている。
よし、掃除でもしようかなと有里は箒を手に取った。
◇
カランカラン、と歩く度に鳴る下駄の音。
風変わりな、派手な女物の羽織を肩にひっかけて歩く男に道行く者は振り返る。
しかしすぐにその顔右半分を覆う包帯を視界に捉えるとパッと目をそらす。
男はそんな通行人の目など気にもならないのか上機嫌そうに口許を緩めたまま歩を進めていた。
「―――…この時間帯には珍しい通行人だなぁ」
「ドリさん?」
男が通り過ぎて行った茶屋で茶を啜っている「い組」という火消しの羽織を纏った男が目を細める。男の名は「緑川」。
江戸の火消し集団の「い組」の頭で江戸に及ぼす影響力は絶大なものとなっている。
横で一緒に茶を啜っていた質屋の息子、赤崎が緑川の見つめている方向に目を向け、その眉を寄せ合って皺を作った。
「な、んでアイツがこの時間に…っ」
「…江戸に帰って来たのか。何月振りだろうな」
何事もないといいんだけどな、と江戸の治安を守る役目を担っている緑川は苦笑する。
しかしその目は決して笑ってはおらず、男の背中が消えた人混みを射るように見つめていた。
「――…お天道様が天の真ん中にいるこの時間帯にアイツが歩いて向かうっつったら、一つしかねぇよな」
「…!達海さんのとこか」
立ち上がって男を追おうとした赤崎へ「やめとけ」と緑川が団子を差し出して言う。
赤崎は不満げな顔をし、男の消えた人混みに目を向けた。
「心配なさんな。…達海さんに何かあったら俺達が容赦しねぇ。何も起こらないうちはあの人の『暇潰し』を邪魔しちゃいけねぇよ」
「だけど、」
「自分の『遊び』を邪魔されて拗ねた子供ほど報復が怖いモンはねぇんだぜ。
相手は天下の情報屋だ、臍曲げられたらそれこそあの男に手を貸すかもしれねぇ。頭回しな」
射るような眼で緑川が赤崎を見ると「達海さんさえもガキ扱いかよ」と呟いて赤崎がしぶしぶと団子を受け取って座る。
男が消えた人混みの中には緑川と同様、幾人か手拭いを頭に巻き「い組」の羽織を纏った男達がいた。
「そういや達海さんの所に今日い組の誰だかが行くって言ってたな」
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