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共犯者[12]
傷口はさほど時間をかけずとも塞がるが、傷痕はそうはいかない。
17年の人生から考えれば大した年数でもなかったが、銀八を失った反動は思いの外大きかった。
近藤に迷惑はかけまいと、高杉は銀八と同棲する前のアパートに戻ったが、急な息切れや睡眠障害に常に悩まされた。
唯一の救いは近藤が頻繁に電話を寄越してくれたことだった。
声を聞いている間はよかった。
いつまでも彼の声を聞いていたいと思ったほどだ。
「大丈夫か?そっちに、行こうか?」
何度そう気遣ってくれたことだろう。
来てくれ、と言いかけた口をその度に戒めた。
「心配ない…」
そう電話を切った瞬間、高杉は再び苦しまなければならなかった。
「銀八……」
お前はどれくらい苦しんでる?俺も苦しんでるよ。
彼と苦痛の背比べをしながら、耐えるしかなかった。
嘔吐感に襲われ、高杉はトイレに駆け込んだ。
今日胃の中に入れたものを全て吐き出すまで止まらなかった。
収まりがつくと、軽く顔を洗い、ベッドに横になる。
うとうとし始めると、唐突にドアベルが鳴った。
「誰…」
こんな深夜に、と高杉は首を傾げながらふらふらと玄関に向かう。
ドアを開けると、部屋着に軽くジャンパーを羽織っただけの男が立っていた。
「何の用…」
「こんな夜にすまねえ。顔が見たかった」
そのとき高杉の胸を覆ったのは、この上ないやすらぎだった。
脱力してしまった身体は近藤の腕に支えられ、そのままベッドに運ばれた。
自分より高い体温に包まれて、高杉は久しぶりに深い眠りに落ちた。
「おやすみ…」
近藤が静かに囁く。
高杉の眼帯に触れ、丁重に外した。
この傷を出来れば癒してやりたいが、自分はこの先も、高杉の治療薬にはなりえない。
本当の治療薬とは同時に劇薬でもあるのだ。
傷を治せるのは、傷をつけた張本人だけだ。
(報われねえや…)
罪の共有だけで繋がっていた相手を、どんな理由であれ、想ってはならなかったのかもしれない。
*
「行っちまうのかよお…」
駅の改札前で駄々をこねたのは沖田だった。
高杉は高校に退学届を出し、故郷に帰ることにした。
この土地から離れて、心の静養をするために。
「なに、行くったって日本列島の中じゃねえか。いつでも会える」
「メールしてくだせえ。電話もくだせえよ」
「わかったわかった」
半泣きしながら腰に張り付いてくる沖田を、高杉は苦笑しながら甘やかしている。
沖田には事情を一通り話した。
当初はショックを隠しきれなかったようだが、彼は後々理解してくれた。
「これからどうすんだ?」
「地元の定食屋に世話になるよ。もう連絡済み」
やはり実家には戻らないのだな、と近藤は内心呟いた。
「定食屋で働くんですかい?」
「まあそんなとこかな…中卒じゃ雇ってくれるとこもねえだろうし。腕は見込まれてんだ俺」
「まさか継ぐのか?」
「どうかな。その道も悪くねえかな…」
「高杉が寿司職人ですかい。向いてねえなあ…」
「お前、定食屋って何だか分かってる?」
小馬鹿にした表情で高杉は沖田をどつく。
「じゃあな、もう時間だ。行くからな」
高杉が時計を見やって別れの合図をする。
言いようのない感情が込み上げてくるのを堪え、近藤は「おう」と一言笑顔で見送ることにした。
スーツケースを引いて、高杉は改札を通る。
沖田はいつまでも手を振っていた。
暫く振り返していた手を下ろし、完全に背中を向けてしまった高杉に、近藤は濡れた瞳を誤魔化して瞬きをした。
「いいんですかい…?」
「え?」
沖田が頬を膨らませて言った。
「追いかけなくて」
そう近藤の鼻をつついた。
「顔に出てますぜ?」
近藤は衝動的にポケットからパスケースを取り出す。
それを翳して改札を通った。
伝えたいことがたくさんある。何から伝えればよいのか、分からないほどに。
電子音と共にアナウンスが流れる。
駅のホームで高杉は空でも見上げているのだろうか。上向いたまま呆然と電車を待っていた。
「高杉っ」
近藤の声に、高杉は咄嗟に振りかえる。
驚愕の眼差しを向けた後は、泣きそうな顔をした。
先生とお前は何だろう。お前と俺は何だろう。
どうして普通に抱き合える関係でいられないのだろう。
近藤が高杉の前に立ちふさがり、胸の内側のもの全てを込めて両腕を広げると、高杉も荷物を手放し、その場でひしと抱きしめ合った。
「ありがとう」と高杉は頬をすり寄せる。
近藤の温もりが愛しかった。
この数日間ずっと、自分を支え続けてくれたものだ。
「近藤…」
「………」
「お前に会えて、よかった…」
実感をこめて、より強く近藤を抱きしめる。
この男がいなければ、自分は駄目だった。
「俺もだ…」
僅かな言葉数と、全身で訴えた。
ああキスをしたい。罪や罰ではなく、楽しいことを共有する時間が欲しかったな。
電車がホームに差し掛かる。
別れは間近だった。
「何かあったら、いつでも言ってほしい。まだお前に恩返し出来てねえから…」
惜しみながら、お互いに拘束を解く。
「無理すんなよ。それで充分だ」
「…サンキュ、そうする」
「元気でな…」
高杉が最後の乗客だったのだろう。彼を乗せた後すぐにドアが閉まる。
近藤がドア付近に駆け寄ると、硝子に張り付いた高杉を見据える。
高杉は笑顔を何とか繋ぎとめて泣きながら、掌を振ってバイバイの仕草をしていた。
口の動きで「また会おう」と言ってくれたが、二度と会えないような気もした。
発車サインが鳴ると、少しずつ近藤と高杉の間に距離が出来る。
追いかけることはしなかった。
とにかく手を振り続けて、精いっぱい生きろ、と高杉に投げかけ続けた。
ホームが近藤以外蛻の空になる。
潤んだ目を拭いながら、生きろ、ともう一度空に向かって呟いてみる。
苦しみを苦しみで乗り越えるのではなく、苦しみを覆い尽くすくらいの幸せを掴んでほしい。
共犯で罪の重さを軽くするのではなく、罪を受け止めて、それ以上に力強く前に進んでほしい。
天に願ったことがそのまま身に降り注ぐのを感じ取り、近藤は大きく伸びをした。
コンクリートに張り付いたままだった足がようやく、空を切った。
「坂田さん、坂田さん。聞こえますか?」
既に目を覚ましていたことに気づかぬほど、そこは身に覚えのない環境だった。
白い服を着た、それも眼球を丸出しにした連中の顔が、上、左右と均等に配分されていた。
「私のことが見えますか?彼女らの声が聞こえますか?」
この手を擦ったり握ったりと、眼前のやや老けた男は何を必死になっているのだ。
視覚も聴覚もはっきりしている。
どちらかと言えばはっきりしないのは、ここに至るまでの過程だ。
「俺、は…?」
「分かりますか?あなたは急に意識を無くされて、この2週間昏睡状態でした。30分ほど前にお目覚めになりました」
何故そんなにゆったりと話すのだ。反応の鈍い老人に言い聞かせているようだ。
30分も前に起きていて、恐らくずっとこの場にいたのであろう彼らの存在に気付かなかったというのか。
「なあ…」
脳が身体の不具合を訴え始めた。
「何で、こんな…ことに、な…てる……?」
「…は?」
彼らが顔を見合わせる。
素朴な疑問を投げかけただけなのに。
「何でか、足が…うごか、ない…頭も…怪我でも、したのか…背中も、いてえ、し……」
「何をおっしゃってるのですか?」
「何って…」
なぜこんな怪我を負っているのか、聞いてるんだろ?
いや、それ以前は何をしていた。
自分は…何をしている人間だった?
「2週間前、知人の方がここに…」
「知人…?」
誰だ。
そもそも選択肢がひとつも思い浮かばないのは、どういうことだ。
待て、今日はいつだ。
「今…」
「え?」
「今って…何年?」
「はい?」
「何年…何月…?暑そう、だな…夏なの、か…」
窓の外から日がさしていた。
いい陽気だ。蝉の鳴き声まで聞こえてくる。
「なあ…答えてくれ…」
今日は、いつだ?
終。
→終?