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□綺麗な水を飲もう
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「――何はともあれ、僕は貴方と出会えたことに感謝していますよ」

赤髪の男は微笑む。

「……人を拉致して、知らない部屋に無理矢理連れ込んできたアンタだけにはそんなこと言われたくないわ」

赤髪の男に組み敷かれている茶髪の女は、真っ赤に充血した丸い瞳で彼を睨みつけた。
そんな彼女のささやかな反抗にすら、赤髪の男はただ満足気に笑うのだ。




「貴方はいつだって人聞きの悪いことを言いますね……偶然にも道端で出会った貴方が珍しく泣きじゃくっていたものですから、僕はただ貴方を保護してあげただけですよ」
「保護って言ってる時点でおかしいのよっ!」

泣き腫らした目で赤髪の男――赤司を睨みつけたまま、茶髪の女――リコは、頬に触れようとしてきた彼の手を振り払った。パシン、と乾いた音が鳴り響く。
それでも、涼しげな赤司の表情が揺らぐことはない。

「貴方の泣く姿なんて、然う然う見れるものではない。絶滅危惧種に匹敵するほどですよ。ならば、保護をしなければいけないのが義務というものだ」
「私を動物扱いするな!」
「人類は生物学上、霊長類ヒト科の動物に値します。つまり、僕らは歴とした動物であり、」
「――ああもう、うるさい!!」

――話しかけないで。放っておいて。私に触れないで!

リコの瞳が揺れ動く。今にも溢れだしそうな涙に、赤司の口の端が吊り上がる。

「……最低っ!アンタなんて、大っ嫌い……!!」

とうとう、彼女の瞳からぽろぽろと涙が零れ、頬を伝っていく。そのたびに赤司は嬉しそうに笑った。そんな彼の態度に嫌悪感を覚えてしまうのは無理もない話。
リコは近くにあった枕を掴むと、自分の上で馬乗りになっている赤司の顔めがけて、思いきり枕を叩きつけた。嫌い、大嫌い、と何度も何度も口にしながら。
しかし、枕は赤司の手によって制されてしまう。
彼の表情は何一つ変わらない。
赤司はリコの手から枕を奪い取ると、ベッドの下へと投げ捨てた。

「乱暴はよしてくれませんか?」
「アンタにっ……言われたくないっ……!」

もう近寄らないで、とリコは彼から顔を逸らすと、体を丸め、堰を切ったように泣き崩れた。
堪えていたものが、体の内から外へと放出されていくように。
赤司はリコの震える肩に手を伸ばした。触れた瞬間、触らないで、と彼女が鋭い声を上げる。
赤司は振り払われた自分の手の平を見つめた。

――こんなときまで強気なのか。

ふっと微笑みながらリコに視線を戻す。その瞬間、彼から笑みが消え去った。

「……そろそろ、抵抗するのはやめてくれませんか?」
「来ないでっ……!」
「“見ないで”の間違いでしょう?」

赤司の言葉に、リコははっとしたように顔を上げた。
彼の体が、ぐっと彼女に近付く。間合いを詰められた彼女は、彼の体を押し返した。

「……言いませんでしたか?そろそろ抵抗するのはやめてくれ、と」

突然、赤司を押し返していた腕が掴まれ、リコの頭上へと持ち上げられた。片手で彼女の両腕を押さえつける彼の華奢な腕のどこにそのような力があるのだろうか。
手首を握り締められ、リコの顔が苦痛に歪む。

「これ以上何かしようとするなら、貴方のこの両手を縄で縛りつけ、拘束という手段をとりたいと思っているのですが、どうでしょうか」
「どうもこうも、アンタの思考回路は一体何本のネジが抜けているのよ!」

そう吠えるリコだったが、彼が冗談で言っているわけではないことを重々承知だった。彼は本気である。
強張らせていた体の力を抜くと、聞き分けの良い人だと彼は優しく微笑んで、彼女の手首を掴む力を緩めた。
赤司の射貫かれるような視線から逃げるように、リコは顔を逸らす。
彼に指摘された通り、見られたくなかったのだ。自分の泣き顔を。――泣いている姿を。

「成績優秀、生徒会の副会長を務め、さらにバスケ部の監督を務める貴方は、友人にも恵まれ、学年問わずの生徒からも教師からも好感を持たれ、何不自由のない学校生活を送っている、と言っても過言ではない」

そうでしょう?と問われ、どこからそんな情報を得たんだ、と疑念を抱きながら彼を横目で見やった。
それなのに、と彼は続ける。

「どうして貴方は、あの時道端で、一人で泣いていたのですか?」

疑問を投げかける赤司であったが、その目の奥には確実に真相を捉えていた。ならば、こんな質問なんて愚問だ、とリコは唇を噛み締める。

「貴方はどんなときだって気丈に振る舞い、常に前を向いていなければいけない。なぜなら、貴方は誠凛バスケ部の監督なのだから」

その言葉に反応したかのように、リコはびくりと体を震わす。

「貴方が一人で泣かなければいけないのは、自分の弱い一面を部員に曝したくないから。だから一人で泣いていたのでしょう?」
「……やめて……」
「貴方が泣いていたのは、誰かが貴方に非情な言葉を放ったからだ。後ろ指を指され、貴方にこう言ったはず」
「やめて……!」

赤司はリコの耳元に口を寄せた。


「――女子高生が監督だなんて、ふざけているのにも程がある、ってね」


リコは目を見開かせた。
赤司の声が、野太い男の声と重なる。
突如自分の目の前に現れ、罵声を放ってきた見ず知らずの男。
誠凛の試合を見ていたのだろうか。
男の声が、あの言葉が、耳を塞いでもこびりついて離れない。
今まで罵られたことは何度もあった。試合会場でだって、試合中のときだって、何度も罵声は投げかけられた。
それでも表情一つ変えず気丈に振る舞えたのは、周りに部員たちがいてくれたからだ。
どんなに非難されたって、彼らは自分についてきてくれた。自分を認めてくれた。だから、ここまで頑張ってこれたのだ。
しかし、いつだって強気で立ち向かえるほど、彼女は強い人間ではない。
彼女は監督である前に、一人の女子高生なのだ。
脆くて儚くて、弱い存在。ただひたすらに隠し通してきた本当の自分。
隠さなければいけなかった。
自分を非難する声が、部員たちに向かわないように。
部員たちが馬鹿にされることだけは、絶対に避けたかった。
彼らだけは、何をしてでも守りたかったのだ。
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