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□綺麗な水を飲もう
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――あんたが監督か?
目の前に現れた男の声が頭を過る。

――女子高生が監督だなんて、ふざけているのにも程がある。


――さっさとやめて、新しい監督は大人に頼むんだな。


――その方が、部員のためになるだろう?


どうして見ず知らずの男にそんなことを言われなければならないのか。
どうして何も言い返せなかったのか。


どうしてあの男の言うことが正しいと、心のどこかで思ってしまったのか。



「……もう……やめて、お願いだからっ……」

啜り泣きながら、赤司に懇願した。
今まで耐えてきたものが、すべて溢れだしてしまったような感覚だった。

その後、男に何か言われたような気がしたが何を言われたのかなんて覚えていない。
ただ呆然と立ち尽くして、涙が零れてきた。
道端で一人、溢れていく涙を止められなかった。
もし、あの場に日向たちがいたのなら泣くことはなかっただろう。いつものように強がって、無理してでも笑えたかもしれない。むしろ、日向たちがその男をただで帰すとは思えないが。
一人がこんなにも辛いなんて思いもしなかった。
そして、膝を抱えて泣き崩れていたリコの目の前に現われたのが、他の誰でもない、赤司だったのだ。


「……アンタも、あの男と同じことを思ってるんでしょ?だから私をここに連れてきたんでしょ?そんなに私を馬鹿にしたい?みんなを強くしたくて、がむしゃらに頑張ってきたことは全部無駄な努力だった、って私を嘲笑いたいんでしょ?」

涙を流すたびに微笑む赤司の姿が思い出される。
もう離してよ、と力のない声で呟き、彼へ目を向けた。
彼を見やった瞬間、リコの思考は停止してしまった。

「……馬鹿にしている?誰が?僕が、貴方を?」

何に対しても表情を崩さなかった赤司が、今になってようやく感情が露になったのだ。
不快そうに顔をしかめるような、そんな表情。
驚きを隠せないまま彼を見つめ返せば、彼は嫌悪感を抱くように眉間に皺を寄せた。

「嘲笑いたいのはその男に対してだ。僕が貴方を認めなかった日など、一度もない」
「……え?」
「吐き気がする。できることならその男を捕らえて、悪態を放つ喉元を切り裂いてしまいたいぐらいだ」

赤司は吐き捨てるにそう口にすれば、リコの両手を解放して起き上がる。
リコは放心状態のように横になったままだ。

「……赤司くん」

リコに呼ばれ、静かに彼女を見やる。

「なんか、怒ってる……?」

すると、またしても赤司はリコに覆いかぶさるように身を乗り出した。
先程と違うのは、彼女の背中に腕を回したということ。
突然の出来事にリコは動揺を隠せず、しかし、彼を拒絶することだけはしなかった。
自分に体重をかけてしまわないように、もう片方の腕でバランスを保つ彼の優しさに戸惑いつつも、遠慮がちに彼の肩をそっと掴む。

「何も知らない、何も分かっていない奴が貴方の心を汚すのは許されない」

――そもそも。


「貴方の心に踏み込んでいいのは、僕だけだ」


彼女の胸元を指差し、赤司は微笑んだ。何それ、と小さく呟いたリコは、彼の胸元に顔を寄せた。
彼女の弱さを目の当たりにしていたからだろうか。彼女の小さな体はいつも以上に小さく見えた。
彼女の体を大切なものを扱うように優しく抱きしめる。少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな、そんな気がした。
彼女はやはり、脆く儚い存在なのだ。

「……どうして?」

ぽつり、と疑問を口にする彼女に視線を向けた。

「……私にそんなこと言ってくれるのに、どうして赤司くんは私の泣き顔を見ると嬉しそうに笑うのよ」

顔を上げた彼女が赤司を睨みつける。変わらぬ威勢の良さに、赤司は笑う。
彼女の背中に腕を回したまま起き上がれば、ベッドに座り込んだ自分の胸元へ彼女を押し込んでしまう。

「単純な質問ですね」
「なっ……!?」

分かりませんか?と言いながら、赤司はリコの頬を指先でなぞる。


「僕は貴方の泣き顔が好きなんです」


迷いもなくそう告げられた。
リコは少々困ったように視線を逸らす。

「…………どえす」
「真っ当な解答だと思いますが?」
「それはない」
「なら、もう一つ」

えっ、とリコは顔を上げた。両手が顔に添えられたかと思えば、彼の顔が近付いてくる。
咄嗟に目を瞑ってしまったが、こつん、と額と額がぶつかる感触に目を開けると、息のかかる距離に赤司の顔があった。

「僕はこう見えて、重度なまでに貴方を求めています」
「…………は?」

あまりの至近距離と唐突な言葉に、身を強張らせていた力がふっと抜ける。
赤司は呆ける彼女と間合いをとると、吊り上げた口元から真っ赤な舌をちらつかせた。
そして、あろうことか涙の跡が残る頬へと舌を這わせたのだ。
ざらりとした感触が体中に駆け巡り、リコは声にならない叫び声を上げた。

「――っ!?」

胸元を押し返しても、腰を強く固定されている今、身動き一つとれない。

「ちょっ、やっ……!」
「僕は貴方のすべてを愛せる自信がある。頬を伝う涙も、貴方の内にあったものならば、外に出ようがそれは貴方のもの。貴方のものなら、この涙も僕は愛することができる」

舌を動かすたびにリコの体が震えた。そんな彼女の反応に、赤司は目を細めてみせる。

「僕が貴方の泣き顔が好きなのは、貴方が悲しみ、途方に暮れることで、貴方の心に穴が空くからだ」

目尻に溜まった涙までも舌ですくい上げ、彼は微笑む。

「どんなときも隙を見せない貴方が、唯一心の内を見せる瞬間」

目が合うと、彼の視線がリコの瞳を捉え、離そうとしなかった。

「赤司くん、」

リコの頭の後ろに赤司の手が回る。

「心に穴が空いてしまったのなら、僕がその穴を塞いであげましょう。僕は貴方の心の隙間を満たしたい。その時だけ、僕が貴方を愛していることを実感することができる」

つまり、と赤司は彼女の唇に自分の唇を重ね合わせる。


「――僕の前では隙を見せてほしい。でないと、僕は貴方を愛している実感が湧かないんです」


唇が離れ、耳元でそっと囁く。


「大丈夫、僕は貴方のすべてを愛せる人間ですから」










「――ところで、相田さん」

ベッドの上で魂が抜けたように呆けていたリコは、彼の口から自分の名前が聞こえるとはっとしたように振り返った。
同時に、部屋の中を歩き回っていた赤司がベッドに戻ってくる。リコの傍に腰を下ろすと、すぐに彼女の肩に手を伸ばし、自分の方へ引き寄せた。

「人間の体内は水がほとんどを占めているということは御存じで?」
「な、なによ急に……」

リコは頬を赤らめたまま顔を逸らす。赤司にキスをされてから、熱が一向に引かないのだ。

「先程、貴方は子供のように泣きじゃくっていたので体内の水分はほとんどないと思われるのですが」
「子供は余計よ!……まあ、喉は渇いたけど……」

小さな声でそう言えば、赤司は手にしていたペットボトルをリコへ差し出した。
驚いたような目で彼を見つめてから、ありがとう、とペットボトルを受け取ろうと手を伸ばす。
が、絶妙なタイミングで赤司は手を引っ込めた。空を掴んだ手を下げ、意味が分からないとでも言うように彼に目を向ける。

「言ったでしょう?僕が貴方を満たす、と」

ペットボトルの蓋を開け、彼は水を口に含む。
そして、リコの腕を引っ張り――刹那、自分の唇を彼女の唇に押し当てた。
口の隙間から流れ込んできたのは、赤司が口に含んだ水だった。
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