飛鳥シリーズ(杏)

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「……何だったんだろう、今の……」

放課後いきなり音楽科担当の榊に呼び出されたと思ったら、いきなり侑士について相談されかけた。

……実際は侑士の名前が出た瞬間
「えっ、あいつ従兄弟だったんですかへーえ初めて知りました」
と棒読みで目線を榊から5度程ずらし適当に返したらそれ以上何も言われず解放されたので、榊が何を言おうとしたのかは知らない。

結果、担任伝いでやってきた呼びだし状を受け取ってから四分後には音楽室に一人で突っ立っているという現状が存在する。

私はため息をついて目線を黒板の方にやり……正確にはピアノに向き直った。

これだけ近くで、しかも一人きりでピアノを見るなんて久しぶりだ。

私が音楽を捨てて以来初めてかも知れない。

黒色の固い光を反射するそれが近くに感じるだけで、何となく体が強ばっている感じがした。

(……今更……何なんだろう)

音楽を捨てて、ピアノに金輪際触らなくなって、初めて気づいた事がある。

まずは、オーストリアにいた当時の私は、全然ピアノが好きだと感じていなかったのだと言うこと。

たった三年で見切りをつけて日本に帰ってきてしまうくらい、当時の私にとってピアノの存在価値は低かった。

後……当時の私は無意識下でピアノが好きだったのだと言うこと。

矛盾はしていない。

好きとか嫌いとか、そんな事は問題にならないくらい私の中をピアノが占める割合は高かったのだ。

そして……今でも私は多分ピアノが好きなのだ、という事。

授業中に無意識で動く指に音をつけると、昔弾いた、難関と謳われている数々の曲が出来上がる程には。

……それでも一度挫折した私がピアノに触れるのは許されない気がして、家のピアノは触れないでいた。

昔は一日何時間でも弾いていたそれも、今では時折母さんが弾くだけになっている。

(バカか、私は……)

そうは言いつつピアノに近づき鍵盤をそっと撫でる。
艶やかな手触りは懐かしくて、同時に刺すような痛みが私の中を走った。

それは多分、私の後悔と失望の痛み。

鍵盤の真ん中より少し高い鍵盤を触ると、音楽の時間にこの鍵盤の音が若干狂っているせいでイライラするのを思い出した。

絶対音感という、ある種特別な能力の持ち主にしか分からない不協和音。

これを聞くのが嫌で、体調が悪い時は音楽の授業をサボる事さえあった。

基本的にサボってもバレない音楽は、二期に一回のテストもはっきり言えば教科書を読むだけで楽に合格点が取れる。

それ以上を目指そうと思わないのは、単なる惰性だ。

少し目線を上げると、数枚の楽譜が目に入った。

踵を浮かせて手を伸ばし、ピアノの上に置かれたそれを手に取る。

「これ……」

合唱コンクール二年生用課題曲の伴奏符。

……今年も、例年通りこの曲なんだ。

パラパラと捲れば、一年前に聴いたピアノの音色が頭の中に戻ってきた。

指先が何となくうずうずする。

三年前まで毎日のように感じていた、ピアノを目の前にした時の条件反射。

とたんにピアノが弾きたくなったのは先日侑士のバイオリンを久しぶりに聴いたからかも知れない。

下手くそなくせに、ずっとあいつはバイオリンを弾き続けていたのだろうか。

……そうだとしたら、音楽に携わる者としては私などよりずっと上等だ。

『音楽は、奏者が楽しむからこそ成り立つ芸術なのですよ?』

唐突に思い出した、オーストリアの音楽学校教師の綺麗なドイツ語。

……もう一度音楽に触れたかったのかもしれない。

もしくはただ単純に変態眼鏡の従兄弟に負けたくなかっただけかも知れない。

理由なんて分からない。わからなくて良い。

気が付いたら鍵盤の上を私の指が動き出していた。
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