BLUE ROSE 2
□42. 7月 とある日曜日
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「よし…と」
跡部は名前を部屋のベッドまで運んで、そっと横に寝かせた。
バスローブのお陰で身体に水滴は無く、シーツを濡らすこともなさそうだ。
名前は未だにぐっすりと眠っている。
「あんなガキみたいにはしゃげば眠くなるよな」
跡部は名前の額に軽くキスをして、優しく頭を撫でた。
身体にブランケットをかけてあげて立ち上がると、白のグランドピアノが視界に入る。
ピアノに近づくと譜面台に、ある楽譜が置いてあった。
名前はいまこれを練習しているらしい。
「…ショパンのバルカローレか。懐かしいな」
楽譜を開いてみるとまだ殆ど書き込みはされておらず、練習はこれからなのが伺える。。
「…」
跡部は椅子に座り鍵盤蓋を上げて、白と黒の世界を眺めた。
そして、そっと鍵盤に手を添えた。
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飛び跳ねる水滴が太陽の光を浴びてキラキラと反射する。
ゆったりと揺れる水面、輝く空、吹く柔らかい風。
さっきまで、見ていた空気が音となって目の前を彩っていく。
〜♪
「…ピア、ノ?」
名前はうっすらと目を開けた。
夢の中の光景が、今部屋で形になっていることに気がついた。
ゆっくり上体を起こすと、白いピアノに人影があった。
「景吾さん…」
夢の中で鳴っていた音は、跡部がバルカローレを演奏していたからだった。
波に揺れる水面が音からも感じられる。
ベッドの上で黙って耳を傾けて、演奏を最後まで聴き届けた。
「…景吾さん、ピアノ弾けるなら言ってくださいよ」
「なんだ、起きてたのか」
演奏が終わり、名前はベッドから降りてピアノに歩み寄った。
いつから聴かれていたのかと、跡部はバツの悪そうな顔を浮かべた。
「前にも言っただろ?英国にいた頃の教養の一つだ。ある程度は弾けるが、あまり上手いとは言えないだろ」
「まあ…凄く上手いわけでは…」
「ハッキリ言いやがるぜ…」
だが跡部自身、自分の実力は分かっているようで、名前が言ったことにも特にへこむ様子は無かった。
「お前の演奏を毎日のように聴いてるからな。耳が相当肥えちまったぜ」
「でも景吾さんの演奏、凄くキラキラしてました。さっきまでいたプールの水しぶきみたい」
「そうか?」
「はい、技術なんて、練習すれば何とでもなりますけど、表現力を既に持ってるなんて、すごいなぁ」
「へ、へぇ…そうか」
説得力のある名前に褒められれば、跡部は一気にご機嫌になった。
「ま、俺様にかかれば全ての人間を輝く水面に浮かんでる気分にさせてやるぜ」
「え…もうこれで完成のつもりですか?」
「…」
名前がじっと跡部を見つめているのに気付き、跡部は目線を落とした。
「もっと練習しないんですか?」
「俺は、お前の演奏を聴いてるだけでいい」
「えぇ、ここまで弾けるのに勿体無い!」
そう言って、名前は跡部を押しこんでその隣に無理やり座った。
楽譜をめくって、そして鍵盤に指を滑らしていく。
「ほら、景吾さんここ楽譜無視してたでしょ?ほんとは、こうやってもう少しゆったりとした船で…」
「…おい。まさかお前、この俺に教えようってのか?」
「そのつもりですが?」
さぞ当たり前だと言わんばかりに、鍵盤に手を置いたまま跡部に言った。
跡部はこれまた苦い顔をする。
「俺は望んでない」
「私も中途半端な演奏は望んでないです。ほら、ここもう一度弾いて下さい」
「…嘘だろ」
有無を言わさない名前の徹底指導が突如として始まった。
気軽に自分の演奏を名前のピアノでやるんじゃなかったと、珍しくも自分の行動に後悔を覚えた。
名前はピアノのこととなると目の色を変えるから。
「あ、音多い」
「…た、たまたまだ」
ピアノに関して妥協を許さない指示は、流石はヨーロッパのコンクールを荒らしてきただけある。
しかし最近ピアノに触れていなかった跡部からしたら、名前の理想に向けて指を動かすのに一苦労だった。
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「…もう日も暮れましたし、今日はここまでですね」
「鬼かよお前……」
慣れないピアノに疲労し、跡部はコツンと倒れるようにピアノの譜面台に頭を乗せた。
長い曲なので短時間ではやはり指導しきれなかったが、開放してくれたことに跡部はどこかほっとひと息ついた。
「ですけど流石景吾さんですね!みるみる上達しますもん」
「俺様を誰だと思ってんだ?何だって出来る男だぜ?」
「…」
「そりゃお前と比べたらピアノ上手いわけないだろ。やめろその無言」
頭を譜面台から上げて、手を払って名前の痛い視線を止めさせた。
「でも、景吾さんほんとセンスあるから」
「お前のスパルタはもうごりごりだけどな…、さてと」
笑いながら跡部は椅子から立ち上がった。
そして名前の腕をとって、ある場所へ連れて行く。
「え?景吾さん?」
「ピアノ弾いてる時もずっと気になってたんだが」
「わっ」
ここからもう一部屋につながる扉を開けて、名前をそこへ押し込んだ。
その部屋には服が溢れている、名前のウォークインクローゼットだ。
「早く着替えてくれ。下着同然の姿で俺の前をウロウロするな」
「あ、ほんとだ忘れてました」
バスローブを羽織っているにしろ、前は開けっぴろげの水着姿で居続けていた。
「ほら、とっとと着替えろ」
「わ、分かりましたって」
ウォークインクローゼットへの扉を閉めて、跡部は名前が着替えるのを扉越しで待つことにした。
扉越しから名前の声が聞こえてくる。
「そういえば忍足くんと向日くんは?」
「とっくに帰ったぜ」
「そっか、申し訳ないことしました…」
「別にまた明日の学校で会えるからいいだろ」
それからすぐに、きちんと服に着替えた名前が部屋から出てきた。
露出を抑えたいつもの姿にやっとほっとする。
「やっぱお前はこうじゃなきゃな」
「そんなに水着だめかなぁ」
「お前だからダメなんだ。察しろ」
ツンとした態度を取りながら、跡部はさっきまで弾いていた楽譜を手に取った。
「あと、俺がピアノを弾いたこと、周りのやつに言うなよ。俺のはまだ弾けるって言えるレベルじゃねぇから」
「そんな、全然弾けてますよ」
「あれだけスパルタしといてよく言うぜ。弾けてない証拠じゃねぇか」
苦い顔をして楽譜を元に戻した。
まだ曲の前半しかしっかり練習出来ていない。
「…ま、気分が乗ったら、またピアノの練習に付き合ってもらってもい…」
「それはもちろん!!一緒に曲を完成させましょうね!」
「…温度差……」
「ん?」
「なんでもねぇよ」
久しぶりの休日。
いつもと少しだけ違ったことをして過ごした二人だった。
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