BLUE ROSE 2

□45. 7月 今更
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蒸し暑く生温い風が、レースのカーテンをなびかせて空調の効いた部屋に入ってくる。


名前はテラスへ出られる自室のガラス扉の前で、その生温い風を浴びながら庭を遠目で眺めていた。

この暑い日本の夏でも、庭師が毎朝早朝に手入れをしてくれているお陰で、跡部邸の庭は今日も美しい限りだ。



「名前」


庭を見ていると背後のドアから名前を呼ばれた。
いつもとは違う控えめな開け方をして、跡部がそっと部屋に入ってくる。



「名前、大丈夫か?」


その声に名前は振り向いた。
心配して追いかけてくれたらしい愛しい彼に、名前は笑いかけた。



「さっきは取り乱してすませんでした。あんなはしたない退席の仕方しちゃって」

「そんなの気にしてない。…もう泣いてないのか」

「なんですかそれ。泣いてない方がダメみたいな言い方」


名前はまた笑った。
あの部屋を出た時は、涙が溢れていたのに。



「…私、父様の言いなりになんてならない」


名前の意思は目力からよく見えた。
先程まで泣いていたから目の周りはほんのり赤いが、それが目力をますます強調させている。



「なにが婚約ですか。信じられない」

「…」

「どうせ私の事なんて、道具の一つにしか思ってないんだもの」

「…それは違う」

「…」


とっさに入ってきた跡部の否定文に、名前は眉をひそめた。



「なんで父様の肩を持つんです?」

「別に肩を持つわけじゃないが、…あの人もお前の父親だから。そんな言い方するなよ」


跡部は名前の言葉遣いを諌めた。



「あの人だって、お前が大切だからこの跡部家で安全に暮らさせようとしたんだろ。だったら…」

「だったら何だって言うんですか」

「え」

「父様がどうだって、結局は顔も知らない人との婚約を勝手に決めてきたんですよ。…そんなの、娘を道具としてしか思ってない証拠じゃないですか」


名前の声色からは怒りが溢れ、それを表面化させないように落ち着くために、ついにはテラスへのガラス扉を完全に開けて降り立った。

夏の日差しが名前の肌に突き刺すが、そんなことも構わず手すりの上で腕を組んだ。



「…父様、色々と景吾さんに酷いこと言ってましたよね。ごめんなさい、嫌な思いさせてしまって」

「謝るな」


同じくテラスに出て、名前の隣に歩み寄った。
時折吹く暑い風に、木の葉が揺れ動く。



「私、父様を絶対に説得しますから」

「…」

「私が一緒に居たいのは景吾さんです。これから先も、景吾さんが好き」

「名前…」


2人の熱視線が絡み合う。
名前の頬をスラリと撫でて、そっと顔を近づけた。

名前が静かに目を閉じる。




「…今は止めよう」

「え」

「この屋敷に、まだお前の父親がいるしな」

「…」


頬から手を離して、跡部はテラスから屋内へと戻った。
熱い日差しだけで、名前の背中に汗が伝う。



「…」



蝉の鳴き声が頭に響く。

ジリジリと鋭い日差しが肌を突き刺す。







「抱いてください」

「!」

「私を、抱いてください」


跡部が振り向くと、名前はまだテラスに居た。
蝉の声が、遠くに聞こえる気がする。



「…知らない人と結ばれたくない。私は、景吾さんにだけ、触れられたい」

「…本気で言ってんのか?」

「本気に決まってます」


名前の瞳は一途に跡部を捕えていた。
名前は、覚悟を決めている。

まだキスしかした事のない二人ももちろんその先の行為がどんなものかを知っている。
だが、敢えて避けてきたし、そんなことをしなくても愛に満たされていた。

それなのに、こんな状況になって言葉として出す名前が、どれだけ焦っているのか。



「…状況、分かってんのかよ」

「はい」


名前は揺るぎなかった。

跡部は腰に手をあてて、そこから少し黙った。
蝉の声がするのに、部屋が妙にシンとして、糸がピンと張り詰めたような緊張感が漂っている。

名前に聞こえない音で小さく息を吐いた。



蝉の声が、また大きくなった。




「景吾さ…」




「…興ざめた」



「…え」


跡部は鋭い目で名前を見下した。


一体何を言われたのか頭が働かない。
ただ、その見下す瞳が、今まで感じたことのない冷酷なものなのは全身の震えで理解した。




「景吾さん…?」


震える声で名前を呼んでみる。
しかし目の前の人物の瞳の色は変わらなかった。



「お前との関係に興ざめした、そう言ったんだ」

「な…んで…」

「お前との暮らしはもう終わりだ。とっととこの屋敷から出て行きな」


名前は首を横に振った。
全く理解ができない。



「きゅ…急にどうしたんですか…?なにを言って…」

「抱いてほしいだと?冗談も大概にしろ。お前に言われる程落ちぶれちゃいねぇ」

「…父様に、何を言われたんです?」


こんな事を言い出した原因が父なのではないかとすぐに疑った。

碧く深い見慣れたその瞳が、今では苦しいほど痛い。



「お前の父親は関係ねぇ。俺の行動は俺が決める」

「だっておかしいです!ついさっきまでそんなこと無かった!私の婚約も反対してくれた!なのに…」


どうしても信じられなかった。
跡部と過ごした思い出は、こんな突然に消えるものとは到底思えなかった。

共に過ごした日々は、名前の中に色濃く残っている。



「景吾さんの優しさは知っています!父様の提案に、仕方なくそんなことを言ってるんですよね?」

「は?」

「そんな優しさ要らないです!婚約は何としても解消させます!景吾さんとこれからも…!」

「こんな勘違い女だったとはな…」

「…嘘言わないでください!そんな嘘聞きたくもない!」

「嘘?」


人を馬鹿にしたような鼻で笑ったその顔は、名前に向けられる筈のなかった信じられない表情だった。



「俺様の気持ちがいつまでも自分にあると思うなよ」

「…っ」


涙がとめどなく溢れた。
彼からの信じたくもない言葉が胸に容赦なく突き刺さる。
容赦ない言葉と視線が、名前を失墜の底へと突き落とした。



「…何が、そうさせた原因なんですか?私が、抱いてほしいなんて言ったから…?」


涙で途切れる言葉を必死で紡ぐ。
名前には、跡部の気持ちの変化の原因が、これぐらいしか思いつかない。

だが、相変わらず跡部は平然と答えてきた。



「原因?そんな明確なものはねぇよ。ただ興ざめして分かったぜ。お前の父親は、別れるいいタイミングをくれたってな」

「別れる…?」

「そうだ。俺はお前と別れる」

「…本気で、言ってるんですか?」


名前はゆっくりと室内へ上がって歩み寄る。
涙でぼやけた視界でも、跡部がこちらを鋭い目で見ているのはよく見えた。



「…こんな一瞬で、好きって無くなるんですか?私達の関係って、こんな程度だったんですか?」

「ああ。こんな程度だった。そういうことだ。冷めたらなんてことない。お前を見ても何とも思わないもんだな」

「っ」

「ま、お前とは十分楽しませてもらったぜ」


涙が頬を伝い落ちる。
ここまで心が苦しいのに、目の前の男は真顔を貫いて涙一つ流さない。
今まで見てきた彼の表情は、今ここには何一つ存在しなかった。




「お前とは無理だ」

「…」

「勘違い女とこれ以上一緒にいられるかよ」

「!」



バシンッ!!



名前は力一杯跡部の頬に平手を食らわせた。
その衝撃音が部屋に響くほどめいいっぱい。




「最低…」

「…」

「そんな男だと思いもしなかった…」

「…」

「信じてたのに…どうしようもなく愛してたのに…。私のことも何度も愛してるって言ってくれたのに…あれは何だったんですか…嘘つき」


頬を打たれた衝撃で乱れた髪から碧い瞳がこちらを覗く。
その瞳を初めて憎しみの対象と見えるようになってしまった。



「言われずとも出ていきますよ、こんなところ…」

「…」

「二度と顔も見たくない…」



跡部は何も言わずに、背中を見せた。

いつもなら部屋から出るまでずっとその背中を見送るというのに、扉が閉まる音が聞こえるまで目を伏せ続けた。


バタン、と音がすれば、名前は唇をぎゅっと噛み締めた。



「なんでこうなるんですか…」


部屋には日本に来てから沢山の時間を費やした白いスタインウェイのピアノが置いてある。
名前はそれに近づいて、ピアノの上に置いた山積みの楽譜に目を向けた。


この屋敷に来てから弾けるようになった曲は数多い。
その殆どが跡部からのリクエストだった。

跡部の喜ぶ顔見たいから。
褒めて欲しいから。

その一心でここで名前はピアノを弾いていた。
それはまさに、昔母にやっていたことと同じなのだ。


しかし、同様に突然それは終わりを告げた。




「…っ!!」



名前は楽譜を勢い良くピアノから落とした。

厚紙がピアノの周りに散らばる。




「くっ…うっ…」


膝から崩れ落ちて泣き叫んだ。
強く落とした楽譜はシワができて所々に破れが生じてしまっている。


自分の力ではどうすることも出来ない現実に翻弄される。




名前は涙が枯れるまで、床に座り込んで身を震わせて泣き続けた。






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