BLUE ROSE 2
□41. 6月 負ける気なし
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男性に声をかけられるほど、自分が彼を見てしまっていたことに気づく。
「わ、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
男性はまた笑った。
初めて会ったのに、なぜか初対面に感じなかった。
すると、側に控えていた真木山が、後ろから耳元で囁いた。
「お嬢様。こちらの方は、跡部景佑様が代表取締役をしてます証券会社の幹部の兼松雅信様でございます。現在景吾様のビジネスの教育係をしております」
「え!?」
せっかく真木山が静かに教えてくれたというのに、名前はそれをぶち壊すような声を上げてしまった。
それでも驚いて目の前の兼松と呼ばれる男を見上げた。
「あなたが兼松さん…?」
「おや、早々にバレてしまったな。つまらない」
愉快に兼松は笑っている。
つまらないという事は、兼松は名前のことは知っている様だ。
「改めてこんにちは。兼松雅信です。名前ちゃんに偶然にも会えて嬉しいよ」
「初めまして…。兼松さんの名前は度々景吾さんから出てまして、名前だけは存じてました」
「ええ?そうなの?変なこと言ってなかったらいいんだけど」
照れたように兼松は頭を掻いた。
「でもどうして私のこと」
「これでも一応、景佑の元でお偉いさんをやってるからね。景吾くんと暮らす君のことは以前より知ってるよ」
「そっか…、そうですよね」
兼松の言う事は確かで名前は大きく頷いた。
「名前ちゃんはピアノを弾くんだね?」
「え?」
兼松の言葉に瞬きをしたが、こんなピアノだけのフロアに来ている時点でピアノ弾きなのはほぼ決まってる話だ。
「はい、楽譜を見に。兼松さんもピアノを?」
すると兼松は首を横に振った。
「私は弾かないんだけどね、娘がピアノを習ってて、どうせならいいピアノに替えてあげたいと思ったんだ」
そう言って、兼松は契約真っ最中の目の前のピアノに手を置いた。
それは名前愛用のスタインウェイではないけれど、子供の習い事には勿体無いほどの名器である。
娘に買ってあげる彼からは、家族愛が伝わってきた。
「ところで…景吾くんとは順調かい?」
「え?」
変わらずにっこりと微笑む兼松に一瞬ヒヤリと背筋が寒くなった。
確かに笑顔のはずなのに。
「失礼。君たちが交際してるのは景吾くんから教えてもらっている」
「そうでしたか…。はい、仲良くしてます」
「ん、なら良かった」
腕組みをしながら満足そうに兼松は頷いた。
「お互いに大きな家柄だが、それぞれの跡継ぎが仲良くするのは我々にとっても嬉しいものだ」
「…」
兼松の言葉で名前は一瞬フリーズした。
変わらず笑顔でいるけれど、言葉は娘を思った時の柔らかさは無い。
今の名前には、兼松の言葉の意味がピンときてしまった。
「…それは、ウチが今、回復してきているから…ですよね?」
「…」
兼松は、名前の言葉にぴくりと眉を動かした。
「…苗字グループが墜落していた時は、兼松さんや幹部の人は、私のことを快く思ってなかったんじゃないですか?」
「…」
「でも今は回復してきてるから、交際について文句を言わない。そうですよね?」
名前がそう言うと、兼松は笑顔から鋭い目線に変え、名前を見下ろした。
「…どこかで経営状況を聞いたようだね」
「様々な方から聞きました。最終的にウチの投資会社へ直接行って、社長に聞いて確信を得ましたが」
「そうか…。一応まだ秘密にしてたんだけどなぁ」
兼松はフッと笑った。
苗字グループの経営状況は、世界でも上層部しかまだ話は行っていない。
それは家族の名前にも秘密だったのだが、苗字グループが回復しているのを名前が聞いたのを知り、それを受け入れるように頷いた。
「…兼松さんは」
「ん?」
「兼松さんは、ウチの会社の経営がもしまた大変なことになったら、私と景吾さんの関係を反対しますか?」
名前の問いに、兼松は片眉を下げた。
「もしまた経営が、なんてネガティブな言葉を言わないでくれよ。君のお父さんが頑張ったお陰で、ここまで回復したんじゃないのかい?」
「ご、ごめんなさい…」
「…経営事情なんかで景吾くんと離れたくないということだね」
「…」
コクリと頷くと、兼松は少し沈黙し、そして口を開いた。
「はっきり言わせてもらうが、普通じゃないんだよ君たちは」
「普通じゃ、ない…」
「分かってると思うが、君たちのバックには世界企業がある。それも単なる会社じゃない。そこの御曹司と令嬢だ。交際がみなの注目の的なのは理解出来るだろ?」
「…」
「私は跡部側の人間だ。こちらに不利益な事があれば、私は全力でそれを排除する」
「っ」
すると名前と兼松の間に、真木山が割って入った。
「兼松さん、それ以上はお止め頂けますか?」
「真木山さん…」
名前を庇う形で立ち塞がってくれると、その行動に兼松は吹き出した。
「なんだ、よく見れば景佑の護衛をしていた真木山じゃないか。最近見ないと思ったらこんな所に居たのか」
「ご無沙汰しております。景佑様の命により今は名前様の専属の護衛です」
「なるほど、優秀なお前を譲るほど、我らが景佑はよほど名前ちゃんを大事にしてると見える」
「私もお嬢様のことを大事にしております」
「ハハハッ!虐めて悪かった!許しておくれ」
静かなクラシック音楽がBGMとして流れるだけのこのフロアで、兼松は声を出して笑った。
この笑顔は本当に笑っているのが分かったが、果たして言葉通りの冗談なのか、名前は会ってすぐの兼松を信じられなくなっていた。
するとスタッフが遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、兼松様。書類のご用意が出来ましたのでこちらにどうぞ」
「ああそうだった」
契約書の準備をしていたスタッフのことを、兼松はすっかり忘れていたようだ。
スタッフが奥のカウンターへと誘導する。
「では私はピアノの契約をしなくてはいけないから。名前ちゃん、先程は失礼した。景吾くんと仲良くね」
「…」
兼松がそのまま奥へと向かおうとした時、名前は彼に声をかけた。
「兼松さん」
「ん?」
「私、ずっと仲良くします!」
ずっと、の意味を覚った兼松は、その言葉を聞いて大きく笑った。
まっすぐ向けられた名前の瞳に優しく微笑む。
その微笑みが本物かどうか。
名前はもはや素直に微笑みを受け取れなかったが、兼松は今度こそ書類を書きに奥へと向かった。
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