BLUE ROSE 2
□49. 7月 対談
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夕方近く。
未だ日の指す高台の別荘の玄関が開いた。
「…あ、これは景吾さんに見せたいのでリビングの机に」
「かしこまりました」
リビングでの物音に、別荘で留守番をしていた跡部が顔を覗かせた。
「あ、景吾さん!只今戻りました」
「おかえり、…ってそれ一体どうした」
使用人が重そうにリビングの机に置いた物を見つけて目を丸くする。
「魚介類です!」
「いや、見たらわかるけど…」
じゃーん!と自慢げに披露する机の上には、大きな発泡スチロールに数多くの魚介類が氷で冷やされながら入っていた。
どれも素晴らしく新鮮だ。
「名前がレストランからご褒美に貰ったんだ」
「正之さん」
名前とともに帰宅した正之が、帽子を取りながらリビングへ入ってきた。
「ご褒美って…」
「色々あってこの子にピアノを弾く機会が出来てね。いい演奏だったものだからそのお礼にと、店主からこれらを」
「こんなにもですか」
「それともちろんチップもね。この島で遊ぶ足しにはなるだろう。通常の名前のギャラ代と比べたらそれはもう可愛いものだが」
そのチップが入っているだろう包みも、魚の隣に置いた。
かなりの厚みがあるので、可愛いものと言いつつ相当ひと儲けしてきたらしい。
「見てください!すっごく新鮮ですよ!」
「…お前凄いな」
跡部の知らない間に起こった出来事に素直に感心する。
名前にとって初めての土地だろうに、魚を貰ったり現金を稼いできたりと、ここまでたくましく過ごせるとは跡部も思っていなかった。
「何を弾いたんだ?」
「ジャズです」
「お前、ジャズも弾けたのか?」
「得意ではないですけど、昔見様見真似で遊びで弾いてた時があったので」
「景吾くん。私もこの子がまさかジャズまで弾けるとは知らなかったんだよ」
「…俺も知らなかったです」
クラシック専門かとばかり思っていたので、名前のレパートリーの広さに身内の2人も驚愕した。
「そうだ、景吾さん」
「ん?」
モジモジと、らしくない名前の態度に跡部は首を傾げる。
「なんだ」
「あの…これからも日本で、一緒に暮らしてもいいですか?」
謙虚とも言えるその言葉遣いに、跡部はポカンと口を開けた。
言葉を失った跡部に名前は不安な表情を浮かべる。
「だ、ダメですか?もう部屋を出ていった時点で失格ですか?」
「そんな…」
跡部は口に手を当てて呆然とした。
「そんな、ダメなわけあるか。むしろ、俺は家族で暮らすことを選ぶのかと思ってたから…」
「いいってことですか?」
「当たり前だろ」
跡部は肩の荷が下りた様に、力なく近くのソファーに身体を預けた。
「な、なんでそんなに安堵してるんですか」
「すみません正之さん。俺、まだ正之さんのこと疑ってました」
「私を?」
「名前と街に出かけていた今まで、名前をオーストリアへ連れ帰っていたらどうしようとかまで考えてしまってました。帰ってこなかったらオーストリアまで迎えに行かないと、とか…」
「はっはっは!私も信頼を無くしていたものだ」
「…すみません」
跡部は座りながら軽く頭を下げた。
「名前も、きっと家族と過ごしたいだろうし」
「景吾さん…」
名前は跡部の隣に腰掛けた。
「父様には悪いけど、私は今、景吾さんと過ごしたいって思ったんです。私の意思です」
「いいのか?せっかくオーストリアの家も戻って前の生活が出来るんだぜ?俺達の関係も住む場所がどこだって良くなったし」
「…景吾さん。本当は私と住みたくない?」
「馬鹿…一緒に暮らしたいに決まってんだろ」
名前の頬に触れて包む。
自然と顔が近くなったー…
「頼むから私の前で娘とイチャつくのはやめてくれ」
「ご、ごめんなさい父様」
「すみません」
すぐに体を離して気まずそうに頬を染める。
名前はソファーを立って、机に置いてある魚介類の入った発泡スチロールに触れた。
「シェフさんに今晩はこの魚を使ってもらうように言ってきます」
「ああ」
発泡スチロールを持った使用人とキッチンへと向かうと、名前の背中を優しく見守る。
もう完全に今までの名前に戻っていることに跡部はホッと胸を撫で下ろした。
名前が去った後、正之は跡部と向き合う形で前のソファーに座った。
「…私はね、娘を大切にしてきたつもりだよ」
静かに放たれた言葉に跡部は耳を傾けた。
「妻を亡くして、より一層名前に不自由させないようにする為に仕事に没頭した。そのこともあって、家に殆ど帰れない私は名前が寂しくならないよう、当時彼女が夢中になっていたピアノだけの環境を与えたんだ」
「だからオーストリアへ…」
「ああ。そしたら名前に会う度にピアノが本当に上手くなっていて驚いたよ」
数年前のことを思い出しているのだろう。正之の口元から笑みがこぼれた。
しかしそれはすぐに閉ざされた。
「いつしか彼女がプロとしてピアノ活動を本格的に始めるようになって、名前にピアノを与えたことを誇りに思うと同時に、罪悪感が生まれた」
「罪悪感…なぜです」
「寂しくならないように、なんて、ただの私のエゴだったと今では思うんだ。本当は、妻を亡くしたショックを紛らわさせるために、私が仕事に逃げていたんだと」
「…」
「本当はずっと名前と一緒にいた方がよかったのではないかと、今日名前の涙を見て思いがけず過去を振り返ってしまったんだ」
「…」
少しの沈黙が続く。
子供にとって親の存在が何なのか。
親と共に生活していない跡部には一般の考えは分からない。
それでも跡部は分かることがあった。
「それでも名前、ピアノ弾くのを辞めてないじゃないですか」
「え…」
「好きだから今もピアノ続けてるんですよ。名前の演奏聴いたら分かります。誰よりも楽しんで弾いてますから」
何十回、何百回と毎日のように聴いてきた跡部は名前のピアノをよく理解していた。
「正之さんは、名前にピアノに専念出来る環境を与えて正解だったんです」
「…景吾くん」
正之は今日久しぶりに、名前のピアノをレストランで聴いた。
水を得た魚のように美しく跳ねる音に、ついつい目を閉じて聴いてしまうものだった。
クラシックではなかったが、あの音は並大抵な実力では出すことはできない。
「名前のピアノを好いてくれるんだね」
「はい。俺、あいつの一番のファンだと自負してますから」
「ファンか…」
正之は跡部を真っ直ぐに見据えた。
「…名前が君と別れていたあの数日間、名前がどんなだったか知ってるか?」
「え?…いや」
あの数日間は二人にとってぽっかりと空白になっている。
お互いにどこで何をしていたか、何も知らない。
「跡部邸を出てからはずっと、今にも死んでしまうのではないかと思うぐらいに、心が何処かへ行ってしまっていた。宿泊していたホテルのピアノにも見向きもしない程にね」
「…そうでしたか」
「そんな風にしたきっかけを作ったのは我々大人だが、それほどまでに、名前の中で景吾くんは大きな存在なんだと、そう父親ながらに感じてしまった」
「…」
「…」
「…」
「景吾くん。名前を本当に大切にしてくれないか」
「え…」
思わぬ言葉に跡部は目を丸くする。
「朝、君の決意を聞いて、君がどれだけ名前を愛しているのかは分かった。だが、本当に名前を大切にしてくれるね?」
正之の瞳は強く厳しいものだった。
ここに居るのは、大企業のトップである正之では無く、一人娘の将来を心から心配する父の顔だった。
跡部に念を押す質問に、ゆっくりと頷いた。
「名前を大切にします。心から愛してると思える、たった一人の女性ですから」
凜とした返事に正之は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう景吾くん」
正之はソファーから立って帽子を被った。
「何処かへお出かけですか?」
「帰るんだよ、オーストリアへ」
「え!?」
何てことなさそうに正之がリビングを出ようとしているのを、跡部は咄嗟に先回りして止める。
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