BLUE ROSE 2
□49. 7月 対談
4ページ/6ページ
陽気な太陽の光が白い壁に反射する。
海がすぐ横にあるデッキに建てられたレストランに、名前と正之の久しぶりの親子だけでの会話があった。
バカンスシーズンでレストランは繁盛している。
「…名前には、家のことで苦労かけたと思っている。財政をずっと黙っていてすまなかった」
「全くです」
大皿に乗った新鮮な魚介類のグリルをフォークで切っていく。
湯気が立ち昇った。
「私は経営とかそういうのは今はまるで出来ません。私に心配して欲しくなかったからだったとは思いますけど、でも母様に会いに行くって騙して日本に送ったのは酷かったです」
「ああ、お前に一言言うべきだったと思ってる」
「…」
グリルを取り分けて父に渡す。
同時に頼んでいた料理が運ばれて机一杯に並べられた。
「…父様はあの後アメリカへ行かれていたんですよね」
「会社を立て直しにな。今回の復興はフランツの功績が大きい。帰ったらアイツに何かしてあげたいと思う」
「フランツは今どこに」
「日本からそのままオーストリアへ帰ったよ。名前を迎える準備をしたいからってな」
「…」
オーストリアでフランツが待っている。
それを聞いて名前はフォークをお皿に置いた。
「父様、私…」
「分かっている。まだ日本に居たいんだろう?」
ワイングラスを持って、愉快そうに笑う正之にはお見通しだったようだ。
「日本に居たいのなら居てもいい。昔使っていた日本の屋敷も買い戻したから、そこに住んでもいい」
「買い戻したんですか?」
「そうだよ。あそこは母さんとお前と過ごした大切な思い出が詰まってるから、一番に買い戻したかったんだ」
「…」
正之は今も亡き妻を愛していた。 そして名前も。
優しく話すその声に、名前はうつむいた。
「どうした」
「父様は私に何も言わずにアメリカへ行ってしまわれましたけど、私達を忘れていなかったんですね…」
「当たり前だろう。家族なんだから」
「…」
名前は再びフォークを持ってラザニアを口に運ぼうとすると、自然に涙が出てきた。
「…っ」
「名前…」
「…父様と、一度も連絡取れなくて、いつか本当に捨てられるんじゃないかって不安がずっとありました…」
「…寂しい思いをさせて悪かった」
「ホントですよ。父様は父親失格です」
フォークを置いて、名前は両手で涙を拭う。
「でも、こうして本当に会社を立て直して、家族を忘れないでいてくれて。なんだかホッとしすぎて、実感が出ないです」
「実感ないのも無理はない。だが分かっててほしいのは、離れていても、私は一度も名前を忘れたことなんてなかったよ。名前と母さんはずっと家族だ」
「…」
正之は、名前にナフキンを手渡した。
「と言っても、日本にいる間、名前を守ったのは景吾くんなんだよね?彼のほうがよっぽど名前に近い存在だ」
「…帰ったら景吾さんに先日と今朝の無礼をもっと謝ってくださいね。私をずっと支えてくれた恩人なんですから」
「これは…、とんでもない借りを作ってしまったな」
正之は笑った。
そんな父の表情を見ていると、少しだが、清々しい気分になれた。
「それでこれからどうするんだ。名前は日本に残るのか?」
「…はい、少なからず中学卒業までは。ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。飛行機があればいつでも飛んでいける」
今回の正之の突然のギリシャ入国もいとも簡単に行われた。
正之に国境はない。
「跡部邸、そんなに心地よかったのか?」
「とっても」
「ははっ、ウィーン以上の場所ができるとはね」
「でも、まだ跡部邸に戻るって当主の景佑さんに話してないです」
「あいつは迷わず了解する。お前のことを本当に気に入ってるから。まあ一応別荘に帰ったら電話を入れてやれ。あと景吾くんにも嬉しい知らせだな」
「そ、そうですね」
これを聞いたら跡部はなんと反応するだろうか。
跡部家を出るはずだった名前が完全に戻ってくる。
別荘で待つ跡部に会えるのが楽しみになった。
・
・
・
「ええ、マルコが来れなくなった!?」
少し大きめの英語が聞こえ、奥に居た店主に目が移る。
従業員が来れなくなったのだろうか、と思っていると、店主の手に楽譜が持たれているのを見つけた。
「参ったな。ピアノ無しは寂しいぞ」
「しかしマルコがいなければ」
がっくりと肩を落とした店員が名前の視界の先でよく見えた。
「あの、すみません」
「はいはい」
水をサーブしに来てくれた女性店員に声をかけると笑顔で寄ってきてくれた。
「先程マルコさんのピアノがなんとかとか聞こえたんですが、なにか演奏される予定が?」
「すみませんお客様、聞こえてしまいましたか。お見苦しいところを」
「いえ、それでピアノがないとダメなんですか?」
「ええ。この店、店主の趣味で頻繁に生演奏をするんです。それで今日はジャズ仲間とセッションすると決めていたんですけどピアノ担当が病欠で」
名前は少し黙って店主の持つ楽譜を細目で見た。
そして口を開く。
「私弾きましょうか?」
「え!?」
「名前」
父の苦笑いを見て、やめろ、と言われているのがよく分かった。
しかしピアニストとしてここは黙ってられなかった。
「いいでしょ父様。少しだけ」
「今回はジャズだぞ。クラシックじゃない」
「あの、貴方はピアノをお弾きに?」
「はい弾けます」
名前の言葉に店員に笑顔が見えた。
「店主を呼んできます」
店主の元に駆け寄るのを正之はため息をついて首を振った。
「お前の無類のピアノ好きは何も変わらないな」
「父様は私のピアノお好きでしょ?」
「全く。口の減らない娘だ」
呆れたように正之はワインを飲み干した。
「弾いてくれるとは本当かねお嬢さん!」
先ほどの店員が、少しガタイのいい店主を連れてきた。
こんな小娘が弾けるのか?という不安混じりの笑顔だ。
それでも名前は大きく頷いた。
「弾けます」
「…」
あまり信じられないようで店主は顔をしかめる。
それには正之は笑いを堪えきれずに吹いてしまった。
「店主さん。信じられないならまずこの娘の演奏を聴いてみたらどうかね?その後伴奏をさせるかを判断すればいい」
「は、はぁ…」
名のある貴族の間では名前の名は有名になりつつあるが、このエーゲ海に浮かぶ島では名前は無名に等しかった。
正之の進言で店主は渋々店にあるアップライトピアノへ案内した。
まだまだ子供の名前がピアノを準備していると、何か始まるのかと、客の注目が集まる。
「お嬢さん。無理しなくていいんだよ。ここには多くの著名人の客がいる。恥をかくまえに…」
「無理なんてしてませんよ。リクエストは?」
「え?…な、ならばこれを…」
そう言って店主は今まで持っていた楽譜を名前に渡した。
それを受け取って楽譜台に並べる。
「この曲知ってるのかい」
「いえ、初めてです」
「は!?」
驚く店主をよそに名前はピアノに向き合った。
「これは…」
海の見える開放的なレストランにジャズピアノが奏でられる。
セッション用だがピアノが主体の曲らしく、名前のピアノは途切れることなく美しい旋律が紡がれていく。
店主がただ驚いてその場に立ち尽くしていると、ジャズ仲間が数人楽器を持って歩み寄ってきた。
それに名前が気付いてピアノから顔を上げると、サックス奏者の男性がウインクを見せた。
そして一斉にセッションが始まる。
「お客さんの連れのお嬢さんは一体何者だね…」
店主が驚いたまま正之に寄って尋ねる。
こんな小娘がここまで弾けるとは全く思っていなかったようだ。
店主の反応に正之は面白がって笑みを見せて、自慢の娘に目線を戻した。
「彼女は天才ピアニストだよ」
店中の客が、そのジャズに酔いしれた。
・