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□霍乱(拍手御礼文)
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分厚い雲が低く垂れ込めた灰色の空から、今にもチラチラと雪が降り出しそうな底冷えのする冬のある日。
河川敷に、衝撃的なニュースが走った。
聞いた誰もが一様に「嘘だ」と笑い、本当だと知って青ざめる。
そのニュースの内容は
「シスターが高熱で倒れました」
だった。

まさに青天の霹靂、そして鬼の霍乱。
河川敷に不審者の侵入を許さぬようにその体にも病原菌やらウイルスを侵入させるなんてありえないように見える、それどころかウイルスのほうから逃げ出すんじゃないかと思える、あのシスターが。
高熱を出して寝込んでいるだなんて誰もが耳を疑った。

「シスターを斃すなんざ、よっぽどすげえ風邪菌かウイルスだぜ」
という村長の言葉はもっともだ。
この冬は例年にも増して寒さが厳しいせいか、住民達もかわるがわる風邪やインフルエンザにかかって数日ずつ寝込んでいた。
もらい風邪は最後にかかった者が一番酷くなる、というから、最後の一人だったシスターは一番性悪な菌をもらってしまったのかもしれない。

子ども達にはうつらぬようマリアの牧場に避難させ、高熱で倒れていたシスターの第一発見者、
健康体の成人男性で看護の知識もあることからリクルートが傍について看病することになった。
俺にはうつってもいいのかよ、と思わないでもなかったが、眉を寄せ少し苦しそうな表情で寝ているシスターから離れ難いのもたしかで。
しっかりとマスクを掛けて看病を引き受けた。


礼拝堂のソファはシスターが横たわっているには窮屈そうだが部屋で寝かせてやりたくてもリクルート一人では運ぶこともできない。
時間の経過とともに寒さを増していく部屋の温度を暖房で上げ、シスターの体に掛ける毛布を増やす。
自分の主治医に往診を依頼したが多忙で夜にならないと来られないらしい。額に浮かぶ汗を時折拭いてやる他は、苦しそうな寝顔を見守ることくらいしか出来ないことがもどかしい。

シスターの熱はなかなか下がらない。汗を拭いながら、額に張り付いた前髪や微かに赤く染まった頬にそっと触れてみても、金色の睫毛に縁取られた瞳は開かれなかった。

二人きりの静かな礼拝堂では加湿器の音だけが響いていやに耳につきリクルートを苛立たせ、不安を掻き立てる。
どう見ても、シスターの高熱はインフルエンザか風邪によるもので、それ以上のものなどであるはずがないのに。

――ずっとこのままだったら、どうしよう。

シスターだって人間なんだから風邪をひくことだってあるだろう。でも、ひいたとしてもあの丈夫な人が、ここまで熱を出して、寝込んでいるなんて。もっと悪い病気だったらどうしよう。
先ほど自分の目の前で、突然ぐらりと傾いだシスターの大きな体。肩を貸すとよろよろと歩み、どうにかソファーに横たわったときの顔色は真っ青で、体はぶるぶると小刻みに震えていた。
シスターのことだから、心配をかけまいと体調の悪さを隠していたのだろう。ここまで急激に悪化するとは自分でも思っていなかったのに違いない。
つらいのに、ずっと我慢していたんじゃないだろうか。きっと風邪の前兆があったはずなのに一緒にいた、ましてや恋人である自分がなぜ気づいてやれなかったのか――
リクルートはどうしても自分を責めてしまう。

医者の到着が待ち遠しい。
イライラと礼拝堂を歩き回ると靴音が高く響いて、その音はシスターの耳障りになるんじゃないかと慌てて足を止めた。そして何もできない無力感にため息をつく。
いつの間にか日が落ちて、部屋も薄暗くなって行くのが心細い気分に拍車をかける。

情けなくも涙がじわりと浮かんできたそのとき礼拝堂のドアがトントンとノックされ、慌てて手の甲で涙を擦ってドアを開けると、そこには村長とマリアがいた。


「これ飲ませてやれよ。すぐ治るぜ」と村長が持ってきた『河童の茹で汁』は丁重にお断りして
「たまご酒でも作ってやれよ」と渡された日本酒はありがたく受け取った。
「なんとかは風邪ひかないっていうことわざは嘘だったのね」という皮肉とともにマリアからは新鮮な卵が渡された。見舞いのつもりなのだろう。

入り口で受け取ってソファに戻ると、村長たちとのやりとりが騒がしくて起こしてしまったのかシスターは重たげにまぶたを開いたところだった。
「…リク、か」
シスターの声はひどく掠れていた。横になっていても飲めるように用意したストロー付きのボトルで
イオン飲料を飲ませようと口元に差し出すと、すまない、と小さく礼を言ってシスターはストローを咥える。
ゴクリゴクリと音を立てて飲むその様子に回復の兆しを感じて、リクルートはホッとした。
飲み終えたシスターの額に滲んだ汗を再び拭きとって、少し捲くれてしまった毛布を顎のところまで掛け直し
リクルートはソファの近くに運んできていた椅子に腰掛けた。

「…情けないな、熱で寝込むなど。一晩中冷蔵庫に入ったときも風邪をひかなかったのに」
掠れた声でうめくようにシスターがつぶやいた。
一晩中冷蔵庫だなんて、どういう状況でそうなったのかと突っ込みたくなったが
まだしゃべるのもつらそうなシスターにはかわいそうか、と思いとどまる。
「さっき、村長とマリアさんがお見舞いを持ってきてくれたんですよ。
…みんな心配してますから、早く良くなってくださいね」
シスターに世話をやかれることはあっても、逆をすることはあまりない。
いつもと立場が逆転しているのが妙に嬉しくて、リクルートはポンポンと掌でシスターの頭を撫でる。
こんな扱いは不本意だ、とばかりにシスターの青い瞳がジロリと見上げてくるが
今日はさすがにその眼光の威力も3割減だ。
しかし威力は衰えていると言えどジッと真っ直ぐに見つめられると何だかきまりが悪い。

「な、なんですか。俺の顔に何かついてますか?」
「…泣いていたのか?目のふちが赤くなっているが」

ちょっぴりだったが、涙が滲んでしまっていたのがバレていた。
――もしかして、村長やマリアさんも気づいていた?だとしたら、かなり居たたまれない…
リクルートは慌てた。

「な、泣いてなんか」
「すまなかったな。目の前で突然倒れたりして驚いただろう。もう大丈夫だから」
否定の言葉は聞き入れられることなく、どころか謝られてしまった。
だから泣いてませんって、と目をそらす。熱で少し潤んだあの瞳で優しく見つめられているのかと思うと恥ずかしい。
シスターはリクルートの手を取った。
「頼れる誰かがいる、という安心感で気が緩んだんだ。きっと」
――その頼れる誰か、とは自分のことなのだろうか。…なんだか気恥ずかしい。

手を取ったままじっと自分を見ているシスターは、もしかしてこういうことを期待しているんじゃないだろうか、と
リクルートは身を屈めてシスターの唇にキスをした。マスク越しの色気のないキス。
それでも微かに、互いの唇の熱を感じた。

「…風邪がうつるぞ」

唇が離れた後、シスターから発せられたのは素っ気無い言葉だったがその口元は微笑んでいた。

「大丈夫ですよ。これ医療用の一番高性能なマスクなんです。抗菌仕様だし、
ウイルスの侵入も90何パーセント防ぐって」

そこでリクルートの携帯が鳴った。高井から、医者の来訪を告げる電話だった。


「じゃ、俺お医者さん迎えに行ってきますね」

ソファから離れようとしたがリクルートは手首を取られてシスターの胸に引き寄せられ、
再びマスク越しのキスをする。

「医者より薬より、これが一番効きそうだ」

シスターの満足そうな笑みに、リクルートは頬を赤らめた。
少し乱れた毛布をしっかりと掛け直し、ちゃんと横になってなきゃだめですよ!と念を押して礼拝堂を後にする。
この頬の赤さは、高井たちの前に出るまでに引くだろうか。心配だったが、ドアの外は日の落ちた河川敷。
頬も、キスで少し浮かれた頭も一気に冷やされて、リクルートは北風の冷たさにぶるりと震えた。



処方された薬のおかげか本当にキスのおかげなのか、シスターの熱は一晩で下がって
翌日にはもう日常生活に復帰していた。そして、入れ替わるように今度はリクルートが高熱で倒れた。

「風邪は誰かにうつすと早く治る」も「貰い風邪は最後の者が一番ひどい」も、よく言ったものだ。
図らずも私たちで実証してしまったな、とシスターは苦笑しながらリクルートの看病をする。
リクルートは高熱にガタガタと震え、そしてウイルスの侵入を許すようなマスクを売ったメーカーへの怒りに震えながら
毛布に包まって歯噛みするしかなかった。
いや、マスクの会社のせいじゃなくて風邪ひきの病人にキスなんかした自分が一番悪い。いくら絆されたとはいえ、
看護者があんな接触をしてはいけないのは常識なのに。常識を破ったからこそ、このざまだ。

自業自得ですから、とため息をついたところで、シスターのひんやりとした大きな手で熱い額と頬を撫でられ、
リクルートは心地よさに目を閉じて眠りについた。
村長が持ってくるであろう河童の茹で汁を、シスターが飲ませようとしませんように、と祈りながら。

………
(2012/02/18)



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