Harry Potter

□干からびた愛の標本
1ページ/1ページ



身体中の血液が凍り付いたような気がした。耳が自分の背を壁に打ち付ける音を遠く彼方で拾う。誰かの悲鳴が聞こえているような気がした。そんな抉るような幻聴を、耳が捉えて離さない。

瞬時にして動きを止めた心の螺子を無理矢理に、ぎりぎりと痛む音のするかのようにねじ回して、横たわるその存在に震える指で何とか触れる。

──初恋の人の、なれの果ての。その白い手は氷よりも遥かに冷たく、力なく伏せる身体には死の影が唯々色濃く覆い被さっていて。



悲鳴が聞こえているような気がした。どこか、遥か遠く彼方の場所で聞こえる、心を抉り取る悲鳴。それに織り交ざる様にして別の悲鳴を耳が拾う。

それは自分の喉から発せられているものだった。声のない、一陣のか細い風のような、空気だけの悲鳴だった。

空気を取り込むことを忘れていたかのように、肩を上下させて息を吸う。うまく吸えない。まるで呼吸の仕方すらも忘却の彼方へと葬り去ってしまったかのように。



「リ、」



名を呼ぼうと思った。呼べばまだ答えてくれるのではないかとすら思えた。横たわる彼女は美しく、まるで今もただ眠っているだけのように見えたのだから。

きっとここはあの時のホグワーツの湖畔で、自分たちはまだあの頃の学生で、彼女はいつも通り、自分の隣であどけない顔をして転寝をしているだけなのだ。

成すすべもなく突き刺され、抉られ、血を吹き出す心に、血を吐く思いでそう告げる。──それなのに。呼びたい名前が喉元で凍り付く。



上半身を抱き起こして腕の中に収めると支えのない首がかくりと傾いた。そのすべてが、動きのいっさいを何倍にも遅くしたスローモーションの世界の枠のなかで起こっていた。

ゆっくりと垂れる首を見下ろして、今度こそ本物の悲鳴が上がる。額に頬を寄せるとあまりの冷たさに全てが悴んだ。夜の闇よりも遥かに暗く深い絶望が容赦なく背に圧し掛かる。

嘘だ、こんなの嘘だ。リリーがこんな風に逝ってしまうはずがない。悲鳴が細く長く糸のようにのびる。赤ん坊の五月蠅い泣き声がそこに絡まる。

頼むから目を覚まして。もう一度そのエメラルドの目を見せて。この目を見てくれなくったってかまわない。



「…リ、リリー…!いやだ、いやだ……っ!!」



視界が霞んで何も見えない。真っ暗の闇しか目の前には無い。一生分の涙を集めて噎び泣きながら、氷よりも冷たい身体をきつく抱き締めた。毀れてしまうかもしれないのに、それでも身体が言うことをきかない。

毀すなら彼女ではなく自分を毀してくれと信じても居ない神に願った。身体だけでなく心まで、一握の灰燼すら残らぬように毀してくれと願った。それが叶うならば悪魔にだって魂を売れると思った。

それなのに神の足音も悪魔の囁きも聞こえない。耳は自分の悲鳴を拾い続けるばかりだ。──頼むから誰か助けて。彼女を助けて。自分はどうなったってかまわない。彼女のことだけは。



冷たい身体を掻き抱いたまま、いつしか喉から絞り上げる悲鳴が、途切れることなくたなびく嗚咽に変わる。

聞こえる筈のない彼女の悲鳴が耳から離れない。側から上がる赤ん坊の泣き声がそれを割る様にして耳にこびり付いた。



一生分の涙をここで使い果たしてしまおう。そうして自分もここで己の涙に溺れて彼女の後を追おう。彼女の居ない世界に空気は存在しない。呼吸すらも忘れてしまう自分に、この世界は生き地獄だ。

ずっと抱き締めたいと思っていた存在を最期の最期にこんな形で腕に抱くとは夢にも思わなかった。あの頃想像していた幸福など微塵も感じなかった。強く抱き、頬を寄せれば寄せる程、乾涸びた心はより深く抉り取られた。

神も悪魔も自分を救わない、唆さない。では誰に魂を売ればいい。乾涸びた心を誰に委ねればいい。どこに行き着けばいい。

絶望を纏ったまま杖先を自分の頸元に向ける。一瞬のことだ、きっと眠るよりも容易い。杖を握る手に力が篭った。赤ん坊が、泣いている。庇護を必要とする赤ん坊が、エメラルドの目でこちらを真っ直ぐに見て泣いている──。









end.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ