Harry Potter

□弔いの花の色
1ページ/1ページ



一度も訪れたことのないその地に彼が足を踏み入れたあの日、世界の時は冬を真っ直ぐに駆け抜けていた。

寒空を仰げば、今にも淡雪の舞い降りてくるかのようなくすんだ溝(どぶ)色の雲に、ただただ白い天空が覆い隠されている。

ゴドリックの谷。その地で彼の永遠の想い人は、彼が最も憎むべき男と家庭を築き。

──そして永久に目覚めることの罷り叶わぬ呪いをその身に受けて、短い生の幕を降ろした。



ぽつり、ぽつりと降り積もった雪の上に足跡が刻まれる。

何も聞こえない。馬の蹄の地を掻く音も、子供たちの囁き声も、梟(ふくろう)の羽音すらも。その街はただ、しんと静まり返っていた。

街全体が今もなお、喪に服し続けているかのように。



彼は長い漆黒のローブの裾をはためかせ、音のない世界の真中をゆっくりと、白い雪を踏み締める様にして歩いてゆく。

たった今し方まで雪が降っていたのかも知れなかった。家々の屋根も雪に覆われ、辺りはまるで砂糖菓子で出来た世界のようにただ白く。



(ねえ、セブ。冬って素敵だと思わない?雪が積もると、まるでお菓子の国に居るみたい)



歩みがふっと止まる。底無しに深いオニキスの瞳が、視界の先に連なる墓石を収めて音も無く揺らぎ──更なる闇に染め上った。

くすくす、と耳元をいつの日かの幼い声が擽る。彼は震える手で耳元に触れた。

氷の如く冷え切った耳たぶに、指先が触れて直ぐに離れる。やはり幻聴だった。あの声はもう、追憶からしか聞こえない。



ひとつの墓石の前に辿り着くと、崩れ落ちるようにして彼が雪の上に膝を付いた。目線を墓石の高さに合わせると、薄い唇がぶるぶると戦慄(わなな)く。

遠慮がちに墓碑銘に手を伸ばし、彼は一瞬指をびくりと震わせた。それに触れることを躊躇しているのだった。

それでも逡巡の末、苦悶の表情のままに唇を噛み締めて、人差し指の先で墓碑銘に刻まれた愛しい名にそっと触れる。



「…リ、リー……」

(だから冬が嫌いだなんて言わないで。ううん、世界を嫌いだなんていっちゃ駄目。まだ、セブが気付いてない素敵なことがたくさんあるんだから)



震える手で握り締めいた白百合の花が凍っている。霜のついた花弁を俯いて見下ろす彼の頬に、すうっと涙の線が走った。

──その涙すらも、凍り付く。

涙は顎を伝い落ちた瞬間に小さくまるい水晶となって、ころんと墓石の土台石にぶつかった。そのまま灰色の石の上を転がって雪に埋もれ、音の消えた世界は再びしじまに擁(いだ)かれゆく。



「…リリー、リ…リー……。リリー、どうして……!」

(これから私が教えてあげるね。セブのいる世界が、どんなに素敵なのかを。きっとセブも、冬が好きになるわ。きっとよ)



砂糖菓子の家々を、木々を指差して、燃えるような赤毛の少女が鼻の頭と両頬とを薄桜色に染めて笑む。

震える手を再び伸ばすと、指は虚空をかいた。墓碑銘に触れた指先が焼け付くように冷たい。

──君は何処に居ってしまったの?まだ、何も分かっていないよ。冬だって嫌いだし、世界はもっと嫌いだ。

あの頃から何も変わってなんかいない。それどころか、何もかもが嫌で嫌で仕方がないんだ。



「…君の代わりに、死にたかった……。死ねればよかったのに…君を亡くしてしまうくらいなら……」



冷たいものが頭に、首筋に、肩に降り落ちてくる。見上げるまでもない。また雪が降り出してきたのだ。

自分の頭や肩元の雪を掃うよりも、彼は墓石に積もる雪を手で丁寧に払い除け、悴(かじか)んだ手で杖を取った。

か細く呪文を唱え杖先を微かに振ると、其処から迸る淡く白い光が墓石を一瞬包み込み、掻き消されるようにしてなくなる。

暫く彼が見守っていても、もう白い雪がその墓石に積もることは無かった。



悴んでうまく動かない手で杖をローブのポケットに仕舞うと、彼は白百合の束に積もった雪を丁寧に払い除けた。

そして霜のついた白百合の凍れる花弁のひとつに、そっと唇を下ろす。

水晶が、ころりと。一粒、そしてまた一粒。冷たい石に弾けては雪に沈んでゆく。



「──どうか、安らかに…」



今となってはそう願うほかない。既に喪ってしまった、今となっては。白百合にも墓石とおなじように杖を向ける。呪文を唱えかけた唇がぴたりと、微かに開いたそのままで止まった。



(セブ。頭と肩に雪がいっぱい積もってるわ。砂糖菓子の人形みたい。かわいい)



悴んだ赤い手が口元に宛がわれる。声にならない嗚咽を喉元に呑み込みながら、彼はよろけるようにして立ち上がった。

本当に悲しい時、人は声すらも出せなくなる。地に足付けて立つことすらも難しくなる。

何度も何度も繰り返して呼ぶ花の名は、抑え込まれた嗚咽の彼方で微かに響く。

──凍った白百合の束に、ただ寒々しいほどに真っ白の雪が、音も無く積もっていった。







end.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ