Harry Potter
□水が跳ねた
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──消灯時間の一時間前、いつもの場所で待ってる。
ハーマイオニーは丁寧な筆記体で書かれたメッセージを今ひとたび見下ろし、思わずかあっと頬を染めた。
そしてふと周りに誰もいないか気になって、思わずきょろきょろと挙動不審に辺りを見回した。
しかし日没後の図書館に人はまばらにしかおらず、彼女の様子に目をくれるものなど誰もいない。
ハーマイオニーは両頬に手を当てて、高鳴る鼓動を鎮めるように、なるべくゆっくりと時間をかけて息を吐いた。けれど落ち着こうとすればするほど、呼吸は少しずつ浅くなってゆく。
──いけないことだってわかってるのに。こんなこと、誰かに知られたりしたら、どうなることか……。
誰もいない廊下になるべく足音を響かせないように細心の注意を払いながら、ハーマイオニーは緊張のせいかローブの胸元を思わず握り締めていた。
抜き足差し足で歩く自分が滑稽でならない。まだ外を出歩いてはいけない時間ではないのだから、堂々と前を向いて歩けばいいのに、と。
けれどそれが出来ないのは、彼女がこれから後ろめたく、疚しいことをしようとしているからだ。
学年一の秀才との誉れ高いハーマイオニー・グレンジャーが、無二の親友たちからすら隠れ遂せて、こんな夜更けに何をしているのか、万が一にも誰かに知られてしまえば。
──その時にはきっと、ただでは済まされない。彼女自身も、そして「彼」も。
抜き足差し足で恐る恐る、いつもよりも遥かに長く感じられる廊下を俯きながら進んでいると、ふと視界の端を漆黒のローブがちらりと過ぎった。
ぎくり、とハーマイオニーは不自然なほどに身を竦めて立ち止まる。
視界に否応がなしに映る黒光りした靴のつま先が、彼女が出来ることならば相見えることは絶対に御免被りたかった、最悪の人物との遭遇を、如実に物語っていた。
「…御機嫌よう、ミス・グレンジャー」
「……ス、ネイプ教授」
「このような夜更けにそのように下を向いて歩いているとは、はてさて何か疚しいことでもおありですかな?」
図星なだけに、流石の彼女も咄嗟に機転が回らなかった。震えのくるほどに緊張して手に汗を握りながら、ハーマイオニーはごくりと生唾を飲む。
「沈黙は肯定と受け取ってもよろしいのかな?」
カツ、と黒い靴の踵が廊下の石造りの床の上で鳴り、俯いたままだったハーマイオニーが思わず顔を上げた。
そして彼女はひっ、と息をすくめ一歩後ずさる。──敵寮の寮監の底無しの暗い眼が、ほんの僅かの距離のところにあった。
抉るような視線はまるで、彼女の茶色の眼を決して逸らさせまいという意思を持ったかのようで。
「─…一体何を企んでいる」
「わ、私、なにも…」
「隠し立てできるなどと思うな。…君は賢い魔女だ。ほんの少し知恵を絞ってみれば、分かることではないかね?」
何を、と問う前にスネイプの薄い唇が緩やかにしなる。眩暈すら覚えてまた一歩後ずさろうとしたハーマイオニーの二の腕を、スネイプが素早く掴んだ。
「言え。何をしようとしていた?また我輩の薬品庫に侵入しようとでも目論んでいたのか?君のご学友達が鬱憤ばらしにでも使うであろう、ポリジュース薬の精製のために」
「……!ちが…っ!」
「考えてみるのだ、ミス・グレンジャー。幾ら校長のお気に入りの君であっても、教師に逆らえばどんなつけが回ってくるか。…他の教師達と同様、我輩も君を贔屓するなどとは決して期待するな」
思ってもみなかったことを蒸し返され、ハーマイオニーは目を丸めた。しかし幾ら必死になって否定したところで、抉るような視線からは免れることができない。
──開心術。そうだ、この人は開心術を心得ている。
唐突に思い出したその視線の意味に、ハーマイオニーの背中が粟立った。──見られている、読まれている、さっきからずっと、隠してきたはずだった心の中を。
「い、いやっ!見ないで……!」
ハーマイオニーの悲鳴のような声が上がったまさにそのとき、スネイプが彼女から視線を逸らしてその後方をじっと見据えた。
「…ドラコ。そのように息を切らして、一体何を急いでいたのかね?」
スネイプの呼んだ意外な人物の名に、ハーマイオニーははっと息を詰めた。しんとした静寂の中で、耳をすませば後ろから確かに、疾走したあとのように乱れた呼吸が聞こえる。
「いえ、教授、なんでも…、ただ、少し、厄介なゴーストに、絡まれていて、逃げてきたところで…」
「……ほう。それは災難だ」
静かな声でスネイプが言った。ハーマイオニーは恐る恐る、その暗い目を盗み見る。
一瞬背後の存在を見据えるその瞳が微かに細められたような気がしたのは、出来れば目の錯覚であって欲しい。彼女は祈るように切実に思った。
「では、これ以上の災難を被る前に、早く寮に戻るといい」
「はい…、そうします…」
「─…そういうわけだ。ミス・グレンジャー、今夜ばかりは彼に免じて見逃してやろう。ミスター・マルフォイに感謝することだな」
抑揚のない声で言うと、スネイプは長いローブをさっと翻して彼女の側を通り過ぎていった。コツコツコツ…と靴音が一定調子に遠ざかってゆく。
ハーマイオニーは靴音が完全に聞こえなくなってからも、まるでその残響が廊下中に響きわたっているかのような思いに囚われて、身動きが全く取れなかった。
彼女の心を縛り付けたそれは、寮を出るつい先程まで憂慮していたことが危うく現実のものとなりかけた故の、恐怖だった。
──誰かに見つかったら。知られてしまったら。それが何よりも怖かった。自分だけでなく、彼も一緒に責められ、引き離されて万が一にも、会えなくなってしまったりたら。
「……グレンジャー、」
「だめ…!やっぱりだめよ、こんなの…危険すぎるわ…」
怯えたような小さく震える声を受けて、彼女の後ろに佇む青年が唇をきつく噛んだ。ドラコは半ば無理矢理にハーマイオニーの手首を掴み、彼女を横切って、前を歩き始める。
「待って、待ってよ…」
「待てない」
「お願いだから…!また誰かに見つかったりしたら、私達…」
「構うもんか。今日は絶対に離さない」
ずんずんと前を進んでいくドラコに半ば引きずられるようにして歩き始めたハーマイオニーは、いやに冷静なドラコの声色に思わず口を噤んだ。
落ち着きすぎたその声がかえって無鉄砲さを感じさせているような気がしてならない。もしかして、やけになっているのだろうか。
けれどハーマイオニーは、また何かを問い掛けようとして、やめた。いつもの待ち合わせ場所である監督生専用のバスルームの扉を開けた彼が、中に入ってすぐに、まるで噛み付くような口付けをしてきたから。
そして漸く彼女は思い知る。彼は怒りに燃えていたのだ、と。
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