Harry Potter

□白き墓標
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ハリーがゴドリックの谷を訪れた時、季節はちょうど茹だる様な暑さから少し逸脱した晩夏に移ろうところだった。

一瞬の後に姿現しして再びその地の土を踏み締めたハリーは、心なしか僅かに涼しくなった晩夏の暁の微風を身に受けて小さく溜息を吐く。

彼が生まれた場所。両親が死んだ場所。そこは紛れも無く、彼のルーツだった。

思い出せるはずもないのに、ここでかつて両親と共にごく普通の一家庭のうちで生きていた遠き日々を思う。



熾烈な戦いを終え、かの闇の帝王として君臨した史上極悪の魔法使いを葬り去った、あの運命の決戦の日から三月以上が経つ。

彼がハーマイオニーとこの地を訪ねた時はまだ戦禍の最中に居て、ろくに両親の墓前に向かう暇さえなかった。

白百合の花束を手に、ハリーは長い黒のローブを翻しながら墓地へと足を向ける。

途中マグルと思しき住民が訝しげに彼のローブを凝視していたため、ハリーは苦笑して心なしか早足に歩みを進めた。



彼にとって、両親の墓前に花を添えるのはこれが初めてだ。両親の墓がどこにあるのかすら知らなかった。可笑しな話だと思う。

白百合の花束をそっと墓前に供すると、ハリーは片膝を地についたまま墓地をぐるりと見渡した。

ダンブルドアの家族、そしてあの御伽噺に登場する三兄弟の末っ子にして彼の先祖であるイグノタス・ヘベレルも、ここに眠ると云う。遥か遠いようで、どこか彼にとっては近しい人々。

誰もいない墓地のその静寂こそが、眠れる魂を起こさぬようにとまるで無言の子守唄を奏で続けているかのように、彼には思えた。



「父さん、母さん」



ハリーは両親の墓標に向き合う。ふたつの墓標に両の手をそっと置いて、囁くように彼は告げた。



「すべて終わったよ。僕が父さん達の仇を取った。あいつは──ヴォルデモートはもういない。闇の時代は、もう終わったんだ」



色々と忙しくて来るのが遅れてごめんね、とハリーは墓標に向かって小さく頭を下げる。本当ならば一番に報告するべき人達だったのに。

けれどハリーにはどうしても心に引っ掛かることがあった。そのことがどうにも足枷となって、彼がこの地に赴くことを留まらせたのだった。

ハリーは母・リリーの墓標に視線を傾けた。触れる冷たい石の感触が指先にじわりと沁みる。

この三か月間ずっと考え続けてきたことの延長線上で、彼は不意に思った。──あの人も、ここを訪れただろうか。



「─…母さん。蘇りの石を使って僕に姿を見せてくれた時、言ってたよね。いつも僕のことを見てくれてる、って。だったら──あの時のことも、見ていてくれたのかな?」



風はさわさわと、微かに露に濡れる白百合の真っ白な花弁を揺らす。それはまるで誰かの囁きのように。



「僕、ずっとあの人のことを誤解してたんだ。ずっとあの人のことが苦手だったし、憎んですらいた。けれど──誤解してたのは、母さんも同じだったんだね…」



その時ハリーははっとして振り返った。何か音が聞こえたわけでも、何かが見えたわけでもない。それでも彼はただ一点をじっと見据えていた。

言うなればそれは気配だった。そこから彼の背をじっと見つめる、何かの気配がそこにあった。神経を研ぎ澄ませながら、ハリーは息を顰めてその気配を読む。

──悲しい。寂しい。苦しい。痛々しい。侘びしげな沈んだ感情の数々がその実体のない気配から漂ってきた。ハリーは、思わず翡翠色の目を見開く。



「ま、さか…」



何かがゆらりと揺れたような気がした。まるで地平線にゆらめく蜃気楼のように、たった一瞬だけ向こう側の景色がぼんやりとなり、しかしすぐにまたしっかりとした像を結ぶ。

この気配を知っている。あんな風に息を凝らして、影からひっそりと、偲ぶようにしてこの墓標をじっと見つめる人物など、彼が知る限りただ一人しかいない。



「──スネイプ教授、ですか…?」



答えは、ない。それでもハリーは確信した。実体のないその気配から確かに動揺が伝わってきたから。



「…そこに、いるんでしょう?あなたなんですよね?スネイプ教授……」



言いながらハリーは思わず熱いものが込み上げて来て、勢いよく立ちあがった。驚いてまた一度蜃気楼のようにゆらめいた気配に向かって闊歩してゆく。



「どうしてそんな所にいるんですか?どうして…、どうしてそんな影から見ているんですか…?あなたは、僕の母に会いに来たんでしょう!?」



手を伸ばすとひんやりとした、まるで冷凍庫から零れる冷気のような靄が一瞬ハリーの掌を掠めた。しかし、掴むことは出来ない。

──逃げないでください!と、ハリーは藁にもすがる思いで言い放った。聞こえるはずのない、遠ざかりかけた気配が立ち止まる音を、彼は確かに耳にしたと思った。



「僕、あの日からずっとあなたと話したかったんです。…校長室に行けばあなたの肖像画に会えるかと思ってたけれど、あなたは校長職を辞退したことになっているから、肖像画はないって言われて……」



後から後から言葉が溢れ出る。ハリーは震える拳を握り締め、息継ぐ暇すら惜しいというように語り続けた。



「…あなたが僕を守ってくれていたなんて、知らなかった。あなたが僕の母さんをずっと愛していてくれていたことも、何も…僕は本当に、何も知らないで…ただ、あなたのことを毛嫌いしてた……」



ローブの袖で零れ落ちる寸前の涙を拭い、ハリーは鼻を啜った。気配はただじっと、どうしたらよいのか分からずと言った様子で、息を凝らして彼の言葉に耳を傾けている。



「─…今までずっと、あなたを誤解してました。本当に、ごめんなさい…ごめんなさい、ごめんなさい──ありがとう」



最後に続いた感謝の言葉は、嗚咽とともに絞り出したせいで情けなくも震えた。ハリーは、見えない気配の背に手を伸ばして、まるで抱き着くかのような格好で俯き、渇いた地にパタパタと涙を零す。



「あなたがいなかったら、きっと僕は奴と対峙することすら出来なかった──。いままでずっと、ずっと……ありがとうございました、スネイプ教授…」



もしもこの人の姿が目に見えたなら、今頃どんな顔をしているだろうか。ぎくりと硬直してしまった様子の気配から身を離して、ハリーは場にそぐわない笑みを零した。

きっと、目を剥いていることだろう。忌々しい相手が自分に感謝するあまり背に抱き着いて感涙しているのだから。──あの朴念仁のそんな顔を見てみるのも、悪くなさそうだ。



「僕、マクゴナガル校長に掛け合ってみます。教授の肖像画を作ってもらえるようにって。──それができたなら、今度こそあなたと面と向かって話がしたい」



ゆら、とまた蜃気楼の向こう側で遠くの景色が揺らぐ。恐らく鼻で笑ったのだろう。ハリーは懲りずにまた笑って見せた。



「その時には母さんとの昔話でも聞かせてくださいね。僕よりも、あなたの方がずっと長く母さんと居たから」



そう言って、ハリーは道を開ける。振り返って、母の白い墓標を指し示して、彼は微笑みながら頷いた。



「会いに行ってあげてください、スネイプ教授。…きっと母さんも、あなたを待っているはずだ」



その言葉に一際大きく蜃気楼が揺れた。風もないのに、ハリーの黒髪の毛先がはらはらと空を舞う。何かがゆっくりとハリーを横切った。

そのほんの一瞬、何かがハリーの頭の上に乗せられた。大きく頼りがいのあるそれはきっと、あの人の掌。──ずっと、彼を守ってきた掌だ。



「母さん。スネイプ教授とちゃんと仲直りしてあげてね。じゃなきゃいつまでもしつこく影からこそこそ覗かれるよ」



気配が振り返ったような気がした。些かばつの悪そうな、噛み付いてきそうな、ごちゃ混ぜになった感情を刺すようにハリーに向けて。

ハリーは、盛大に腹を抱えて笑った。



「母さんの墓の前でもまた『減点』ですか?もう懲り懲りですからね」



白百合が音も無く揺れた。ハリーの指し示す先で、白い墓標のその輪郭も、蜃気楼を通して微かに揺れる。

──目を閉じれば二人分の囁き声が聞こえてくるような気がした。








end.

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