RinneU
□縁結び
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紅蓮の色を宿した大きな鳥居が、行く先に幾つも幾つも連なっている。
連なる鳥居たちの下を、辿り着く先の見えない前方を見据えながら、りんねはただひたすら駆けている。
迷路のように曲がりくねったりするその道に、鳥居と鳥居の間から差し込む太陽の光が注いで、走り抜ける彼を柔らかく照らし、石畳の上に影を映し出す。
漸く、走り続けるりんねの目に、連立する赤い鳥居の終焉が見えた。
光さす途切れた鳥居の向こう側に向かって、彼は風を切って走る韋駄天のように駆け抜けていく。
赤く長い鳥居のトンネルをくぐり抜けて、燦然とした日光を全身に浴びながら、目の上に手を翳した。
澄み渡った蒼穹のもとで、白木蓮や紅梅、山桜桃(ゆすら)などの五百枝が可憐な花を咲かせ、天空にむかって悠然と聳え立っている。
そして、一際多くの花を纏った山桜桃の大木の根元に──「彼女」はいた。
──真宮桜。
そう呼ぼうとした彼をいともたやすく押し退けて、喜びに綻んだ唇が、こう呼び掛けた。
「斎宮」
呼ぼうとした名とは違う名称が出てきたことに驚くりんねの心をそっちのけで、彼の身体は勝手に動いて、彼女の元へと歩み寄っていく。
呼び掛けられると、彼女はゆっくりと振り返った。
背を波打つ長い髪が揺れたかと思うと、小さな頭に乗せられた金冠から垂れた珠玉が、若芽色のなずなの実のように震える。
春の色を幾重も重ね合わせた唐衣裳装束からは、焚き染めた白檀の香がほのかに漂う。
白粉(おしろい)をはたいた小さな顔には柳のような眉が引かれ、目元には愛敬紅がうっすらと色づき、口元には紅梅の色が点されている。
山桜桃のもとで、りんねを振り返ってゆったりと微笑する彼女の容貌は、さながら雛人形のそれを思わせた。
「──死神さん?」
紅を点した唇が薄く開いてそう呼ぶと、百千鳥(ももちどり)の高らかな囀りが辺りに満ちた。
真宮桜と同じ顔をして微笑むその彼女は、しかし、彼女自身ではなかった。
困惑するりんねの心を置いてけぼりにしたまま、彼は「斎宮」と呼ばれた彼女のすぐ隣に立ち、丁度肩の位置にある彼女の顔を見下ろす。
「遅くなってすまなかった。仕事がなかなか片付かなくて」
「ううん、気にしないで。私もついさっき来たところだから」
「そうか、なら良かった。──それにしても、この前来たときはまだ蕾ばかりだったはずだが…」
「最近暖かい日が続いたから、一気に咲いたみたい。綺麗だよね…」
慎ましやかな物腰が、彼の知る真宮桜とよく似ていた。
りんねは、感嘆の溜息をこぼす斎宮を見下ろしながら、心が甘く疼くような感覚を味わった。
そして、頬が熱を持ったのを感じたとき、彼女に死神と呼ばれた「もう一人の彼」が、同じ想いを分かち合い噛み締めていることを知った。
「──斎宮。これ…約束通り、持ってきた」
またしても、りんねの意思に反して身体が勝手に動き、彼が着ている黒い水干の袂を、彼自身の手がごそごそとまさぐった。
その時初めて自分が水干を着ていることを知ったりんねは、その袂から小さな紙が取り出されるのを、内側からしげしげと見下ろしていた。
紙を彼の手から受け取った斎宮が、はにかむかのように睫毛を伏せて微かに口元を綻ばせると、目にしたことのないその表情に、りんねの心が高鳴った。
「──本当にいいの?」
「……ここまで来て今更、それを聞くのか?」
「…だって」
途端に、瞳を伏せた斎宮の顔に影がさして、不安げな面持ちになる。
何のことかさっぱり分からないりんねの意識をやはり遠ざけたまま、彼の手が勝手に動いて、彼女の白い手を取った。
斎宮が慌てて手を離そうとすると、彼の両の手はその手を包み込み、しかと握り締めた。
強引な行動にたじろぐりんねの心とは裏腹に、口からついて出た声は真剣味を帯びている。
「罰を受けるのが怖いか?」
「……うん、少し」
「そうか。…俺もだ」
「じゃあ…今ならまだ間に合、」
「でも、お前と離れ離れになるのはもっと怖い」
不安に満ちた声を遮って、彼がそう言い切ると、唇を微かに震わせる斎宮の眦に涙が光った。
覚悟を定めた静かな口調で、彼は言葉を続ける。
「……神に仕える斎宮であるお前を、神から奪い取るんだから、罰を受ける覚悟くらい出来てる」
「でも…どんな罰を受けるかわからないよ。死神のあなただって」
「それでも、六道輪廻の世界に生きる俺は、仏の道を歩んでいるから。──このままだと、お前が行く神の道とは決して交われないんだ…永遠に」
斎宮は、彼から受け取った小さな紙を握り締めたまま、暫し目を閉じて瞑想に耽った。
そして、目を開けて彼を見据えたとき、水で洗ったばかりであるかのように潤ったその瞳には──もう迷いはなかった。
意志の籠った強い眼差しを彼に向けたまま、斎宮は掴まれていない方の手を差し出した。
その掌のうちには、彼が差し出したと同じ白い紙が、収められている。
斎宮が今一度、確かめるかのように呟いた。
「……後悔しない?」
「しない。絶対に」
「…この先も、ずっと一緒?」
「約束する。来世もその先も、ずっと一緒に生きよう」
打てば響くように澄んだ声が返ってくると、斎宮は嬉しいのに悲しいような、笑っているようでいて泣きそうな顔をして頷いた。
握り締められていた手を解放されると、彼から受け取った紙を、目の前の山桜桃の枝に括り付ける。
そのすぐ隣に、彼が斎宮から受け取った紙を結び付けて、一歩下がった。
縁結びのまじないを成就させるべく、二人揃って印を結ぶ。
斎宮にとっては禁忌である仏の真似事。
それを成したその瞬間、無数の矢が放たれる音が、百千鳥の囀りをかき消して辺りに轟いた。
彼は咄嗟に、斎宮を自らの背に隠した。
死神の鎌を手元に出現させて大きく振ると、二人に向かって放たれた無数の矢が、折れて地に落ちた。
鎌を構えたまま、彼が険しい瞳で辺りを見渡すと、黒毛馬に跨り矢を番えた武士達が、二人の四方を取り囲んでいた。
ざっと見ても数十人は控えているところを見ると、彼の方があまりにも分が悪すぎた。
再び放たれた無数の矢を薙ぎ払いながら、彼は背後の彼女に向かって問い掛ける。
「斎宮、無事か!?」
しかし──返事はない。
恐る恐る振り返って、背後に目を向け、彼は鎌を振り上げたまま凍り付いた。
斎宮は微笑んでいた。
口の端から、細く血を流して。
木の幹に凭れた小さな身体が、ずるずると力なく地に落ちていく。
華やかな唐衣裳装束の胸元に、鏃(やじり)が深く食い込んで、赤い血の花が痛々しく滲んでいた。
彼の心臓は、嫌な鼓動を刻む。
「……さ、斎宮…?」
掠れた呼び声に答えるために、斎宮の赤い唇が薄く開いた。
空気に混じるかのようにか細く弱々しい声が、そこから漏れ出る。
──ずっと…一緒。
彼の中で、時が止まった。
瞳の中で、見るもの全てが光を失った。
斎宮の胸に咲く血の花は、赤から黒になっていく。
生死の悲しい境界を振り切るように、動かない身体を力一杯抱き締める。
頭が首の座らない人形のように、後ろに仰け反る。
清らかな魂が、その尊き重さを振り切って、ふわりと浮かび上がった。
幾つもの矢が、弓を離れる音が轟いた。
矢は一直線を引いたり、箒星のような軌跡を描いたりしながら、石像のように動かなくなった哀しい背に向かって飛んで行く。
彼の胸の裡で、あまりのことに凍り付いていたりんねのすぐそばで、同じ声が何の感慨も無くつぶやいた。
──ああ、死ぬんだな。
斎宮の身体を抱き締めたまま、その横に彼の身体はどさりと音を立てて倒れた。
背に幾つもの矢が刺さっているのに、痛みは殆ど感じられなかった。
冷たくなっていく斎宮の身体を守るように抱いて、暗くなっていく視界の中で、彼女の口の端に残った細い血の後を、震える指でそっと拭った。
せめて斎宮の魂を、裁きを受けることのない安寧な輪廻の道へと導いてやりたいと、鎌に手を伸ばそうとしたが、指先に力が入らなかった。
罰なら、お前の分も俺が全部受けるから、と彼は心の裡で呟いた。
その時、縁結びの山桜桃の枝が突然独りでに折れて、寄り添う二人の身体の上にぽとりと落ちた。
重たくなっていく目蓋をゆっくりと下ろしながら、彼は諦めたように、口元をふっと緩めた。
──抜け駆けは許さない、とすぐそばで彼女が怒っているような、そんな気がした。
りんねはまた、赤い鳥居の連なってできたトンネルの中を走っている。
前を見据えて颯爽と、駆け抜けていく。
手にはいつしかの縁結びの枝が握り締められている。
たった一輪の山桜桃の花が、可憐に揺れていた。
──ずっと一緒。
宿世から結ばれた縁の繋がる先が、この道の出口。
誰かが肩を揺さぶる。
りんねは覚醒するやいなや、机からぱっと顔を上げた。
彼の顔を覗き込んでいた桜と目が合うと、夢うつつに垣間見た宿世に思いを馳せるよりも先に、一滴の涙が頬を滑り落ちた。
「ろ、六道くん?」
それは決して、哀しみの涙ではなかった。
「……あのさ、真宮桜」
「うん?」
「他生の縁って、あるもんだな」
「……どうしたの、いきなり?」
「いや、ちょっとだけ…懐かしいことを思い出してた」
「懐かしいこと?」
桜は、小首を傾げてりんねと目を合わせた。
まるで何百年も生きた仙人のように老成した、井戸のように深い瞳が、追憶に耽るかのように優しい色を湛えて、彼女を見詰めていた。
end.