Rinne

□青花魚
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(※捏造過去・りんね祖父×魂子)



「あらあら、気持ちよさそうに泳いでるわ」



青海と呼ぶにはほど遠い、淀んだ色の海流を空からじっと見下ろして、死神は至極おだやかな声で言った。



「くれぐれも、漁船に捕まらないでくださいね」



つとめておだやかな声で言った。

しかしその不安の種は、人の肉眼では見えない遠洋から、水面の魚たちを慄かせながら、軌跡に白波を立て、どんどんこちらへ近付いてくる。

死神の彼女にはそれが見えており、今し方口にした忠告も意味を成さないかもしれない、と思った。



魂子は小さく嘆息すると、漆黒の袖を宙でさっと一振りした。

遥か遠く、猛然と水面を進んでいた漁船が突然止まったかと思うと、慌てたように方向転換をして、元来た水路を辿って行った。

ほんのすこしだけ、まやかしを見せてやったのだ。

本当は禁じられていることだが、このくらいならいいじゃないと彼女は開き直る。



あんなに真面目で優秀な死神だったのに、「彼」に出逢って以来、規律を乱し放題の自分がおかしくなり、一瞬魂子は少女のように微笑んだ。

恋に狂えば何だってできるものなんだと思い知った。

しかしすぐに、眉がハの字に下がった。



「……あなた、覚えてる?初めて会った日、鯖は味噌で煮ると美味い、なんて言ってたわよね」



結婚して、子どもが産まれて、人間の子どもが遊ぶままごとのような日々が始まった。

家事に、育児に、人間界の忙しさに目を回しながら、これって本当に家族ごっこみたいだ、と思った。

けれどそのままごとが、いつの間にか生きる糧になっていた。



押しかけ女房のような彼女を、彼は誰よりも愛しんだ。

逢えてよかった、と言ってくれた。

別れのときが近付くにつれて、憔悴していく魂子と反比例するように、時が遡ったかのように生き生きとした顔をして、いつ死んでもいいと言った。



鯖が食べられなくなった。

スーパーの缶詰コーナーで、山積みになって売られている特売の鯖缶を見るたび、泣きたくなった。

命がこんなにも安価で売られていることに、初めて怖れを感じた。

まるでひとつひとつの鯖缶から、真っ暗で湿っぽい缶詰に閉じ込められた鯖の霊魂の、憐れな嘆きが聞こえてくるようで、思わず悲鳴をあげた。

魂に怖気づくことなんて、今までなかったのに。



夕飯の買い物をほっぽり出して帰ってくるなり、ベッドに駆け寄ってそう訴えた魂子に、病床の彼は腹を抱えて笑った。

僕が缶詰にされたら、きみが食べてくれるかと思ったのに、ととんでもないことを言われ、思わず卒倒しかけた。

そして、ろくでなしのひとり息子に容姿だけは瓜二つの、育ちざかりの中学生の孫が帰ってくるまで、ベッドのそばにいた。



ほんの数か月前のことなのに、もう何十年も前のことのように思えた。

その数か月の間に、離し難かったその魂を自らの手で送り出し、たったひとりの孫は自分のもとを離れ、彼女自身はひとりで、あるべき世界へ帰った。

長きを生きる彼女にとって、それはあまりにもあっという間のことで、心がどこにあるのかすら分からないような状態が続いた。

せめて楽しかった日々の名残がほしくて、孫を手元に置いておきたかったのに、混血の孫は頑なに、死神と混ざって生きることを拒んだ。



誰かに嘘だと言ってほしかった。

あんなに素敵だった人が、今は捕食を怖れる小さな魚になってしまったなんて。

それでも、僕はきみのそばにいる、と言っていたけれど、その意味はまだ分からなかった。

漁網に捕らえられて、地上に引き揚げられて、缶詰に詰められて、スーパーに並んで、誰かの口に入ってしまえば、もう逢えないじゃない。



「缶詰になんてされてしまったら、絶対…いや……」



ぽろり、と溢れたひとしずく。

ただただ、海流の中を縫い止めるように泳ぎ進む、いとしい青色の魚へ。









end.

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