Rinne

□ウンディーネ 5
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 透きとおった水の中、しゃぼん玉のような水泡がひとつ、どこからかふわふわと漂ってきた。
 りんねは何度か瞬きをして、ごしごしと目を擦る。
 ここはどこだ、とつぶやくと、口からぽこぽこと音を立てて空気の泡が生まれた。それらが上にのぼっていくのを見届けたあとに、また近づいてくる虹色の泡へとうつす。これは一体何なんだろう。りんねは興味本位に手を伸ばしてみた。
 指の先で、その泡につんつんと触れてみる。表面がふるふると震えて、パチンと弾けた。
 虹色の光があちこちに向けてはじけ飛び、りんねはその眩しさにあわてて目を背けた。
 すぐそばで、誰かの声が聞こえた。


 一瞬、水鏡を覗いているのだろうかと錯覚した。しかし、すこし先で顔だけ彼の方を振り返っているその人物は、りんね自身ではなく彼と生き写しの父・鯖人だった。
 息子を見ていた鯖人は唐突に、相好を崩した。
 いつもの偽りの笑みではない。息子のりんねでさえほとんどお目にかかったことのない、心からの笑顔だ。
「喜べ、りんね。もうお前は、借金地獄に苦しまなくてもいいんだぞ」
 疑心暗鬼のりんねは眉根を寄せる。鯖人が晴れやかな顔をして続けた。
「借金はもう一銭もない。きちんと完済した。パパはもう二度と借金はつくらないし、りんねに迷惑もかけない。心を入れ替えて、真面目に生きることにしたんだ」
 藪から棒に、そんな夢のようなことを言われても──。今までこのろくでなしがしてきた悪行の数々を思えば、とうてい鵜呑みにできるはずもない。
 ジトッと疑わしげな目を向ける息子に、鯖人は心外だというように目を丸めた。
「信じてくれないのか?」
「信じる方が、おかしいだろう」
「パパはそんなに信用なかったのか……」
「自覚がなかったのか?」
 たった一人血を分けた息子に容赦ない物言いをされ、余程気落ちしたのだろう、ろくでなしの父は盛大に肩を落とした。懐に手を入れて、ごそごそとまさぐり始める。
「お前は疑り深いな。でもこれを見れば、きっとパパを信じてくれるはずさ」
「なに?」
「ほら、これだ。返済証明書!」
 鯖人が一枚の紙を掲げて、誇らしげな笑顔をうかべる。
 りんねはそこに根が生えたようになって、ぽかんとその紙を見上げていた。我に帰り、父親の手からその紙をひったくる。
 どうせ偽造に違いない。そう決めつけていたが、本物だ。間違いない。
 信じられない。本当に、このろくでなしが、あれだけの借金をすべて──。
「な、嘘じゃないだろ?」
 りんねは父の誇らしげな顔を見上げた。
 ずっと彼にとって、厄介事を押し付けてくるだけの存在だった父親。親子のいい思い出なんて、ひとつとしてなかった。
「りんね、お前はもう自由なんだよ」
「──自由?」
「そう。自分の好きなことをして、好きなように生きなさい。パパはもう、りんねを困らせるようなことは二度としないから」
 ──自由。
 もう一度、途方に暮れた声で呟いてみる。夢のような言葉。
 それがまるで、抑えていたものを解き放つ魔法の呪文のように、胸の裡からあたたかいものがじわじわとこみ上げてくる。自由。なんてすがすがしいんだろう。嬉しくて、頬がつい緩んでしまう。
 この借金苦から、逃れられたなら。
 もし、それが叶ったなら。死神稼業を続けて、こつこつと金を貯めよう。そしてまとまった金ができたら、きちんとしたところに住もう。祖父母と暮らした借家でもいい。あそこにはなんだかんだでいい思い出が詰まっている。もう、食うにも困らないはずだ。つつましく暮らしていけば。
 ──そうしたら。もし本当に、それが叶ったならば。
 りんねはこのうえなく穏やかな顔になる。赤々とした瞳が、優しい色をたたえた。

 いつの日か。堂々と胸を張って、彼女の手を取ることができるのかもしれない。
 惨めな生活から抜け出して、彼女と同じ世界で生きることが許されるのならば──。



 眠るりんねの髪を、白い手で優しく梳きながら。
 彼の想い人の姿をした霊は、不敵に微笑んだ。






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