Rinne

□ウンディーネ 6
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 夜の森のしじまを揺さぶるのは、桜と六文がしきりに捜し人の名を呼ぶ声だ。
 化け猫になった六文が池の上まで飛んだ。桜は静けさに包まれた水面を、目を凝らして見おろしてみる。夜空をうつした水面には、じっと微動だにしない月が浮かんでいる。まるで一枚の写真を見ているようだ。
 虚構の月のすぐそばに、りんねが大切にしている黄泉の羽織が浮かんでいる。桜は不吉な予感を覚えた。
「──あれって、六道くんの羽織だよね?」
 六文ががたがたと震え出した。
「は、羽織もないのに、りんね様はどこに行ってしまったんでしょう?」
「わからない。でもやっぱり、何かあったんだよ。ここで」
「……まさか、池の底に引きずり込まれてしまった、とか?」
 桜は身を乗り出した。水面下になにかが映らないだろうかと思いながら、眼下にじっと目を凝らした。あまりに乗り出しすぎたために、心配した六文に「危ないですよ」と諌められるが──
「もう少し、池に近づいてみない?」
 案の定、とんでもないというように六文は大きな目をみはった。
「この池には悪霊が棲んでいるんですよ!もし桜さまを危険な目に遭わせたりしたら、ぼくの黒猫生命はおしまいですっ!」
「でも、六道くんが危ないのかもしれないよ?羽織をこんなところに置きっぱなしにしてるなんて……。やっぱりおかしいよ」
 微動だにしない水面の月が、何かを隠しているように思えてならなかった。桜はもっとよく池をのぞき込もうとするが、手が滑って身体の重心がぐらりと傾いた。
「えっ?」
「さ、桜さま!」
 二人分の声が重なり、あっという間に桜は池の中に落ちてしまった。
 血の気が引いた黒猫はあわてて後を追うが、水面に跳ね返されてしまう。まるで一面にガラスが張られたかのようだ。
 六文は呆然として、桜を飲み込んだ暗い水面を見下ろした。いつのまにかりんねの羽織が消えており、微動だにしなかったはずの月がゆったりとゆらめいていた。


 ふと、霊は真上を振りあおいだ。
 止まっていたはずの月がゆらゆらと形を変えながら揺れている。二人の周りを取りまく澄んだ青色の水が、上からたらたらと墨が垂らされたかのように、少しずつ闇に浸蝕されていく。
 外から誰かが侵入したのだ。
 それによって、まやかしがとけようとしている。
 それでも、霊の膝に頭をあずけて目を閉じる赤髪の少年は、まだ夢のふちに沈んだまま。意識を浮上させる気配はない。その頭を起こさないようにそっと、霊は腕で包み込むようにした。
 ──そのまま、目を覚まさないで。


 りんねの周りにはふわふわと虹色の泡が漂っている。弾けるごとに、そのどれもが彼に幸福な夢を見せてくれた。
 またひとつ、泡が弾けた。
 りんねは桜と向き合っている。借金地獄から解放されたことを告げると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
 さり気なく手を繋いでみる。めずらしく、はにかんだ様子の彼女。
 夢の中にはかならず桜がいた。自分の幸福と彼女の存在とは不可分なのだということを、りんねは思い知る。
 桜の笑顔を見るたびに、心が高揚した。
 りんねもつられて、笑顔になれた。
 この幸せな時間が、ずっと続けばいい。

 遠くから、声が聞こえた。

「六道くん!」

 彼女の声だ──。まやかしよりもずっと明瞭なその声に、我にかえったりんねはハッと目を見開いた。
 気が付けばそこは暗い水の底。桜の姿をした「何か」が、もどかしそうな顔をして彼を見おろしている。桜ではない。なぜすぐに気が付かなかったのだろう。起き上がって間合いを取ると、彼女はふと溜息をついた。
「あと少しだった。あと少しで、魂を得られたのに」
「──魂?」
「精霊である私には、」
 彼女は淡々と告げる。
「魂がない。人間と心を通わせたなら、魂を得られると聞いた。この池に近付く人間を惑わし、池に引きずり込んだが──。皆、恐れをなして逃げていった」
 桜の姿をしたままの精霊が、顔を上げる。その姿を見ているのが居たたまれなくなったように、りんねは視線を逸らした。
「俺は、死神です」
「死神?」
「そう。迷える魂を導くのが、死神の役目だ」
「だが、お前に私を救うことはできまい」
「……」
「私を導こうとも魂がない。がらんどうの限り、どこにも行けない。あの世にも。魂を与えてくれる存在が現れるまで、ここでじっと待っているしかない」
 もう言うことはないとばかりに、りんねに背を向ける。頭上を仰ぐ精霊に、彼もならった。揺れる月を見上げていると、ふと精霊が思い出したように、
「他の人間は逃がしてきたが、お前はそうしなかった。なぜだと思う?」
 りんねはぎくりと身体をこわばらせる。
 すぐ目の前に精霊がいた。彼の首に腕を回し、顔と顔との距離をぐっと近づける。思わず顔を背けた。クス、と彼女の顔で精霊が笑った。
 耳元でそっと囁く声があった。
「──よほどこの女子に心奪われていると見える。なかなか、からかい甲斐があったぞ」
「なっ、なにを!」
 ムキになって言い返しかけるが、すぐそばで彼を呼ぶもうひとつの声が聞こえてきた。
 りんねが声に振り返った時、精霊は泡となって跡形もなく消え去った。驚いて辺りを見回すが、急に息苦しさを覚えてそれどころではなくなった。
 何かが、ふわり、と彼の肩を包んだ。
 肩にそっと添えられた手。息苦しさは、もう感じなくなっていた。
「帰ろう、六道くん」
 黄泉の羽織の片側におさまった桜が、笑いかけてくる。
 夢の続きではない。それでも、たしかにそこに彼女はいた。
 揺れる月に向かってゆっくりと浮上していきながら、りんねは胸に満ち足りたものを感じる。ほんの少しだけ、彼女にはわからない程度にこっそりと、顔を綻ばせた。



 六文に乗って、帰路につく。りんねはほとほと困り果てて、隣の桜の様子をちらちらと盗み見ていた。
 助けに来てくれたことに対して、何度礼を言っても、彼女はどこか上の空。物思いにふけった様子で、りんねと目を合わせようとしない。
「……真宮桜?」
「なに?六道くん」
「その、本当にすまん。迷惑をかけてしまって」
「いいよ、もう。それにさっきから何回も聞いてるよ、それ」
 素っ気ない答えに、小さく溜息をつく。黙って飛び続ける六文の憐れみを感じ、自分がますます惨めに思えた。
「何か、あった?」
 問いかけられて、りんねはすぐさま桜の方を見る。が、彼女は相変わらず反対側を向いたまま。
「何か、とは?」
「池の中で、あの霊と何かあったのかな、と思って」
「いや……。特に何も」
「ふうん。そうなんだ」
 どことなくその声が冷ややかに聞こえるのは、何かを見通されているかのように思えるのは、気のせいだろうか。
 りんねは冷や汗をかきながらも、心に浮かんだ率直な思いを口にした。
「──死神では、救えない霊もいるらしい」
「え?」
「あの精霊には魂がない。だから俺は、あの世へ導いてやることができなかった」
 自分では手の施しようのない霊がいる。改めてそのことを考えてみると、とても悔しくてもどかしい。
 鎌を振り回してさえいれば、忍耐強く未練を聞いてさえやれば、どんな悪霊でも成仏させられる。そんなふうにうぬぼれるのは、大間違いだ。
 思案顔のりんねを、桜はようやく一瞥した。
「やっぱり優しいんだね、六道くんって」
「優しい?俺が?」
「うん。きっとあの霊、六道くんのことが好きだったんだよ」
「えっ?」
「だって、仲良くしてたよね?抱き合ってたし」
「なっ──!それは違う!」
 抱き合ってなどいない!と、りんねは必死に首を振った。
 桜は妙に焦った様子の彼を見上げて、小首をかしげる。
「あれ、抱き合ってなかった?てっきりそうなのかと思ったんだけど」
「断じて違うっ。というかお前、どこから見てたんだ?」
「どこから、って?どういう意味?」
「いや、だから……。とにかく、俺はやましいことなんてしてない!」
 しかしそう言い切ってから、そうとも断言できないことに気付く。桜のまやかしにすっかり浸っていたことを思い出して、気まずくなったりんねは素早く視線を逸らした。

 ──六道くんのことが、好き。

 あれは夢だ。夢なんだ。真宮桜があんなことを、言うはずがないんだ。夢は眠りながら見るものだぞ。
 赤らむ頬を隠すように一人俯くりんねを見つめて、桜は何気なくこぼした。

「六道くんのそういう優しいところ、私は好きだよ」

 ──えっ?
 信じられないものを見る眼差しで、桜を見る。
 彼女は素知らぬ顔をして、気持ちよさそうに夜風を浴びている。
 二人を乗せた化け猫が、月の綺麗な夜空を飛びながらくすくすと笑った。




END

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