Rinne
□京紅 -前編-
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「よし。これでもう、あの霊があなたに付きまとうことはないでしょう」
「ありがとう。助かったわ」
今回の依頼人は、二年生の女子だった。
いわく、修学旅行で京都に訪れて以来、夜中になると部屋の中で妙なラップ音が聞こえるようになって気持ちが悪い、とのこと。
以前、京都で行きずりの落武者霊に見初められて依頼してきた二年生の女子がいたが、今回もやはり同じようなもので、彼女は背後霊に付きまとわれていたようだった。
その霊とは、被衣(かずき)をしたなかなかに眉目秀麗な青年の霊だったが、何百年も前のさる落ちぶれた没落皇家の出であったという。
帝の遠戚とは言え、そのあまりにひどい没落ぶりに、許嫁の姫の実家が彼の実家を見限ってしまったため姫と結ばれず、おまけに姫はあっさり後宮へと入内してしまったらしい。
その霊はもともと貧弱だったため、そこに心労もたたって病に臥せるようになり、数ヶ月後に失意のうちに呆気なく死んでいったそうだ。
この女子生徒に、この霊が付きまとうようになったのは、その姫に彼女がよく似ていたためだった。
そして、冥途の土産に、せめてほんの少しの間だけでも、姫によく似た彼女とともに時間を過ごしてみたい、と哀願された。
幸いにもこの女子生徒が協力的な依頼人だったため、少しの間近所を散策して回ったり、言葉を交わしてやったりと、霊の願いを叶えることに全面的に協力してくれた。
それで霊は満足したらしく、付き合ってくれた女子生徒と死神の少年に何度も礼を言うと、空気にとけるように清らかに成仏していったのだった。
端の方から少しずつあかねさしてきている、わだつみ色の空に、凍て雲がぽつぽつと浮かんでいる。
そんな空を見上げて、今日の仕事を終えた赤髪赤眼の少年は、肩の荷が降りたように大きく背伸びをした。
気温は大分下がってきていたが、真宮桜に贈られたマフラーのおかげで、首元がとてもあたたかい。
ふと、先程あの女子生徒と交わした会話を思い出して、彼の頬にほんのりとうす紅がさした。
『なんかこれ、あの霊がくれたみたい。わたしはいらないから、成功報酬にあげるわ』
『これは……貝殻?』
『多分、京紅じゃない?口紅のことよ。水で筆とか指をしめらせて使う、って聞いたことあるわ』
『口紅、ですか?でも俺、こんなものもらっても使いようが…』
『あら、彼女さんにあげればいいのに』
『……えっ!?お、俺は別に彼女なんて…』
『え、いないの?てっきりいるのかと思ってた。そのマフラー、手編みでしょ?』
『そうですけど……でも、彼女は単なるクラスメートで…』
『単なるクラスメートが、わざわざ手編みのマフラーなんてくれるかしら?…ま、いいけど。いらないなら貰ってくわ。どうする?』
『……貰います』
結局好意に甘えて貰ってきてしまった、その京紅とやらを、りんねはジャージのポケットから取り出して、手の平に乗せた。
蛤貝の表面全体に、漆黒の艷やかな塗料が塗られ、真ん中には金色で、人力車のようなものと花の絵が細やかに描かれている。
開いてみると、貝殻の内面いっぱいに広がる、冴え冴えとした紅花色。
この紅をさした彼女の唇を想像して、そのあでやかさに頭がくらくらとしそうになり、りんねは邪念を追い払うかのように、ぶんぶんと首を横に振った。
「なんてこと考えてるんだ、俺は」
慌てて京紅をポケットに仕舞いこみ、りんねはマフラーに鼻まで顔をうずめた。
顔から火が出ているのではないかとさえ思った。
翌日、教室に人がいなくなったのを見計らって、りんねは勇気を振り絞って、くだんの京紅を桜に手渡した。
桜はきょとんとした顔をして、手の平に乗せられた蛤貝と、りんねの顔との間で、視線を行き来させている。
「昨日、成功報酬に貰ったものだ。京紅というものらしいが、俺はいらないから」
「京紅?ふーん、口紅ってこと?」
「ああ、まあ…そうらしい」
りんねは、心臓をばくばくと言わせながら、無言で放たれる視線に耐えた。
──もしかして、男が女に化粧品のたぐいを贈ることは、思っていた以上に大それたことなのかもしれない、どうしよう、煙たがられたんだろうか、やっぱり渡すべきではなかったか。
色々な憶測が頭の中を行き交うと、途端に不安に見舞われて、りんねはその場から逃げ出してしまいたくなった。
しかし、京紅から視線を外してふと顔を上げた桜は、彼の不安を裏切るかのように、あっさりとした笑みを浮かべていた。
「ありがとう。せっかくだから、貰っておくよ」
「あ……ああ。そうか」
「でも私、化粧って全然しないからなあ。これ、どうやって使うんだろ。固まってるみたいなんだけど」
「水で筆や指をしめらせて使う、と言っていたが」
「へえー、そうなんだ」
感心したように言うなり、桜は指先をぺろりと舐めた。
思わずどきりとしたりんねの心境などもちろん知る由もなく、指で紅花色の部分を軽く叩くようにして触れると、彼女は指にうつったその色を、自らの唇にひいた。
「鏡、持ってきてないかなあ。どんな色してる?」
「……赤いな」
「うん。そりゃ、赤いでしょうよ」
さり気なくつっこみを入れつつも、鏡がないかと、桜は鞄の中身をまさぐった。
すると、その肩を突然、りんねの手ががしっと掴んだ。
驚いて桜が顔を上げると、彼は桜の唇を見下ろしたまま、なぜかぶるぶると震えていた。
「六道くん?」
「真宮桜、それ……取れ」
「えっ?」
「その京紅だ。今すぐ取れ、早くっ」
「なんかよく分かんないけど…わかった、ちょっと待って──って六道くん!?」
りんねは、彼女の肩に手を置いたまま、ゆっくりと身をかがめて、顔を近づけてくる。
すぐ近くでじっと、自分の唇を見つめる赤眼を見上げて、桜は思わず息を飲んで、唇をぎゅっと引き結んだ。
──そのとき。
砂埃がぶわっと上がったかと思うと、肩を掴む手が離れ、誰かが彼と彼女との間合いに入った、と桜は感じた。
それは彼女のもうひとりの同級生であり、幼い時分から彼女に懸想しているらしい、お祓い屋の少年だった。
十文字翼は、噎せ込むりんねに向かって、怒りにまかせて、聖灰を後から後から容赦無く投げつけている。
「六道、貴様!真宮さんになってことを……っ!許せん!!」
「げほっ…十文字、お前のおかげで助かった…」
「お前を助けた覚えなんぞない!」
「あのー…翼くん、もうそのくらいにしておいてあげたら…」
「甘いっ、真宮さん!そんなことだから、こいつがつけあがって……」
激昂したまま振り返り、更に言葉を接ごうとしたとき、翼の視線がぴたりと彼女の唇に止まった。
容赦の無い聖灰連射攻撃から逃れて、砂埃のなかで咳き込みながらよろよろと立ち上がったりんねは、翼の手が桜の肩を掴んだのをみとめて、鎌をぐっと握り締めた。
「あのー…、翼くんまでどうしたの?」
「まっ、真宮さん……!」
「十文字、それ以上彼女を見るな!」
三者三様の言葉が重なった瞬間、りんねの振り上げた死神の鎌の頭部が、翼の頭を容赦無く直撃した。
そのまま、頭にたんこぶを作り、目を回して床に倒れた翼を、桜は気の毒そうに見下ろす。
「えっと…これ、もしかして、全部この京紅のせい?」
「……ああ、恐らく」
りんねは、手の甲で唇をごしごしと拭う桜に背を向けたまま、消え入るような声でつぶやいた。
脈拍はいまだかつてないほど速く、鎌を握る手はまだ小刻みに震えていた。
振り返ったらまた、同じことを仕出かしてしまいそうだった。
あまりの恥ずかしさに、もうこのまま、空気にとけて消えてしまいたい、とすら思った。
──まさか自分が、彼女にキスしようとしたなんて。
To be continued...