その雇用主は?(完)
□第8章・・・過去
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途中で佐倉と分かれた神は、真っ直ぐに浩二の自宅に向かう。
浩二の家に着く寸前、神は鞄のポケットから鍵を取り出した。
浩二のところで働くようになってからそろそろ2ヶ月が過ぎようとしていた。
神には自宅があるため住み込みではなく通いなので、いちいちインターホンを押すのも煩わしいだろうということで、浩二が家の合鍵を神の為に作ったのだ。
浩二的には「通い妻のようでシチュエーションに萌える」らしいのだが、出来れば同棲したいというのが本音だ。
合鍵を渡して、あわよくば神がその気になってくれればいいと思ったのだろう。
けれど、そうは問屋が降ろさないのが現実である。
神は純粋に仕事がしやすくなると喜んだだけだった。
「だって、これがあれば、いちいち断らなくても行きたい時間に買い物行けるし、手間が省けてやりやすくなる」と事務的なことを言っただけだった。
少しくらい自分の愛を感じてくれてもいいのにと、少々ガッカリしたのだが、やはり神はまだまだお子様なのだと苦笑するしかなかった。
合鍵で家の中に入った神は、いの一にリビングへ向かった。
神の仕事始めはまずここから始まる。部屋に入ってまず目に付くのはダイニングテーブルの上。
飲みかけのコーヒーカップがいくつも置いてある。
ソファの前のガラステーブルには山のように積まれた煙草の吸殻。そしてシンクの中には朝と昼に食べたであろう食器たちが水にも漬けられていない状態で無造作に置かれている。
毎日見ている光景だが、毎日必ずため息が出る。ここがこんな状態であれば、仕事部屋はもっと酷いことになっているのは必至だ。今頃どんな汚部屋になっているか想像するだけでげんなりしてくる。
それでも仕事は仕事だ。
「よっしゃ!やるか!」
神は自分を奮い立たせると、制服の上着を脱ぎ、シャツの袖を肘あたりまでグイッと上げて、まずはテーブルのカップを片付け始めた。
シンクの食器を水に漬け置き、カチャカチャとカップを洗っていると、背中からガバッと何かに覆いかぶされた。
「うわぁっ!!・・とっとっ!・・・フゥ〜・・」
危うくカップを落としそうになった神は危機一髪で阻止できたことにホッと安堵する。
カップを破損しそうになった原因が、神の後頭部で猫ナデ声を上げている。
「神〜っ、お帰りぃ〜。会いたかったぞ」
ギュウギュウと神を抱き締めながら、髪の毛の匂いを嗅ぐように頭に鼻面をスリスリと押し付けてくる。
「浩二ぃ〜っっ!作業中に後ろから抱きつくのやめろって言ってるだろっ?危うくカップ割るところだったんだぞ!」
「そんなカップの一つや二つ。愛する神をこの腕の中に抱き締める幸せに比べたら、些細なことだよ」
いい事を言ったつもりなのだろうが、今の神は甘い気分になどなれない。
「あのねぇ〜・・・」
浩二の能天気なセリフに、多少の頭痛を覚え、神は無理矢理クルリと身体を反転させて、浩二と向き合った。
強引に動かれたにので、少しだけ密着した身体が離れた。それでも完全に離れたくないのか、浩二の両手は神の腰に回されていた。
向かい合った神は、身長の高い浩二をキッと睨み上げ、鼻先に人差し指を突きつけた。
「何が些細なことだよ?前から思ってたんだけど、浩二って物の価値観がズレてる!ズボラなのはこの際しょうがないけど、せめて物くらいは大事にしろよな!あんま粗雑に扱ってるともったいないオバケがでてくるぞっ?」
真剣に怒られているのに、最後の可愛いセリフに、浩二の顔がフニャリと弛む。
「神は怒りんぼさんだなぁ〜。もったいないオバケなんて、そんな可愛い小言言うと、オレがオバケになって食べちゃうぞっ?」
フニャフニャと笑う浩二に、反撃されて、神の顔は真っ赤に染まった。
「なっ、なっ!こっちは真剣に言ってんだぞっ?浩二のバカ!アホ!エロ!ド変態っ!」
眉尻を吊り上げて、怒りまくる姿は、まるでキャンキャン吠えているチワワのようだ。
「そんな褒めなくても〜」
「褒めてないっ!」
美麗な顔を思いっきり緩めて嬉しそうにする浩二に、神はキィーっと憤慨している。
「よ〜しよし、分かった分かった。今日はオレの部屋で一緒に寝ような?さっ、行くぞ〜?」
そう言うなり、まるで小動物を抱き上げるように神をヒョイと持ち上げると、そのままリビングから出て行こうとする。