珠玉の部屋 〜頂いた作品集〜

□Cache-cache
1ページ/2ページ

よく怪我をする人ですね、そう言って既に顔見知りである医師が溜息を吐いた。
呆れているのだろうか。
それとも、怒っているのだろうか。
薫には、彼の表情を窺い知る事は出来ない。
その術が無いのだ。

「良いですか、絶対安静です。二度と視力が戻らなくていいのならば無茶しても良いですけどね」
「…絶対に大人しくしてます」
「それで良いです。一日数回、目薬をさす事」
「…はい…」
「入院の必要はありませんよ。…あ、井上さんはご家族いらっしゃいませんでしたね…」
「…」
「入院、されます?」
「そうして貰えると助かります」
「じゃあ手続きをしましょうね」

廊下で診察結果を待つ尾形を、看護師が呼びに行く。
その姿を確認する事は出来ないが、近付く足音で尾形であると分かった。
気配の方へと顔を向け、頭を下げる。

「すいません、入院、する事になっちゃいました」
「いや…」

両目を包帯によって覆われた薫が、無理矢理に笑顔を作るが。
痛々しくて、見ていられない。
二度と光を感じる事が出来ない、と告知されたらどう責任を取れば良いのか。
尾形の心臓は、先程から破裂しそうな勢いで動き続けていた。
落ち着けと自らに言い聞かせてみても。
動きが緩む事はない。

「薬品が目に入った為、角膜が傷付いてしまったんですね。今は神経が剥き出しの状態ですが、一週間程で再生すると思います」
「…と、言う事は…」
「えぇ、必ず見える様になりますよ」
「良かった…」
「ただし、目を使わせない事が条件です」
「入院の必要は」
「本来ならば必要有りませんが、井上さんはお一人ですからね」
「…井上、俺が面倒を見るよ。俺の家に来れば良い」

突然なされた提案に、薫は飛び上がらんばかりに驚いた。

「はいっっ!?」
「お前が無茶をしないように見張っていてやる」
「いや、でも」

尾形からなされた唐突な申し出に、薫は戸惑いを隠す事が出来なかった。
だが、医師と尾形の間では、当人の意志を無視する形で話は進められている。

「そうして頂けますか」
「えぇ、連れて帰ります」
「良かったですね、井上さん」
「…でも」

尾形の負担を考えれば、どうしても躊躇いが生じた。
激務を終わらせた後、盲目の人間を世話しなくてはならないなんて、休まる時間がないではないか。

「さあ、帰るぞ」
「ま、待って下さいっ」
「お世話になりました」
「お大事に」

こうして、視力を一時的に失った薫は、尾形のマンションへと強引に連れて行かれる事となってしまったのだった。


痛い。
酷く痛む。
痛み止めが切れたのか、ズキズキと後頭部が痛み始めた。

「痛むか」
「…少し」
「そうか、悪かった」

こうなってしまったのは。
明らかな尾形の不注意からであった。

「係長!」

薫の叫び声が聞こえると同時に、マルタイとその横に立っていた尾形が突き飛ばされ。
何事かと其方を見れば、二人の代わりに何らかの液体を被ってしまった薫が蹲っていたのだ。
髪から垂れる液体、それが僅かに目蓋へと零れた瞬間薫が激痛から転がるように苦しみ始めた。

「あ、あああぁっっ」

取り押さえられた男が持っていたものは、バスタブなどを洗浄する為の塩素系洗剤。
突発的な犯行であった事が唯一の救い。
これが硫酸などの劇薬であったのならば、ただでは済まなかったであろう。
例え命をとりとめたとしても、一生治らない傷を残してしまう所であった。
あの光景を思い出すだけでぞっとする。

「済まなかった」
「良いっすよ。係長が無事で本当に良かったです」
「俺が責任を持って世話してやるからな」
「…なんか、すんません」
「いいさ。その位、させてくれ」

身を挺して薫が庇ってくれたから、二人は無傷で済んだのだから。
その位は当然だ。




角膜が再生するまで。
神経は剥き出しのままであると知らされた。
想像を絶する痛み、何かを握り締める事で必死に耐えている様だ。
比較的痛みに強い筈の薫があれ程迄とは。

「井上、何か食えるか」
「…いえ、今は」
「少しでも何か胃に入れた方がいいぞ」
「も、少しだけ…」

クッションを抱き締め、小さく震える身体。

「痛いか」
「…」
「井上、無理をするな。大丈夫、此処には俺しかいない。我慢する必要は無いんだぞ」
「ぃ…い、たい、痛い、係長…っ、怖い…っっ」
「大丈夫だ、怖くないよ」

突然に視力を奪われ、暗闇に放り出された恐怖は計り知れない。
躊躇いがちにそっと髪を撫でてやれば、絹糸の様であった髪は液体の影響から艶を失い。
哀しくなった。
クッションを抱き締めていた腕が緩み、髪を撫で続ける尾形へと縋りつく。

「…井上?」
「少し、だけ」
「良いよ。落ち着くならこうしていようか」

ソファーの上、薫の身体を優しく包み込む。
不謹慎だとは思う。
だが。
密かな想いを寄せていた部下が腕の中にいる。
尾形に頼らなければ、何も出来ない状況に優越感を感じたのは事実。

―――何を考えているんだ、俺は。

「…俺…」

腕の中、薫がぽつりと呟いた。

「なんだ」
「…何でも、ないっす」

尾形の胸へと鼻を埋める様にして、薫は掴んだ手に力を込める。
暗闇に独り。
心細いのだろうと、尾形は思った。


落ち着いたのか、身体の震えが止まる。

「さ、少しで良い。食事にしよう」
「はい」
「苦手な物はあるか」
「ピーマンですかね…生野菜も、ちょっと」
「好き嫌いは許しません」
「えぇ?聞いておいてそれは無いでしょ」
「今日は鶏とチンゲン菜の炒め物と豆腐の崩し煮だ。ちゃんと食べる事」
「わぁ、美味しそう」
「ほら、口開けて」

尾形の言葉に、慌てて自分で食べれますと言う薫であったが。
何処に何があるか分からないと箸を持ってみて、解ったのだろう。
渋々、唇を開く。

「ほら、入れるぞ」
「はい」

自らの放った台詞にドキリとした。
状況を変換すれば、情事の最中の様な厭らしくも聞こえる台詞。
そして、恥じらいながら『はい』とそれに応える薫。
腰に微妙な疼きが走った。

「冷ましてあるからな」
「…お手数お掛けします」

食べさせてやる、という行為は性行為に繋がるものがあるのではないかと錯覚してしまう。
物欲しげに唇を開き、次を強請る姿。
思わず欲情しそうになる。

「もうお腹いっぱいです」
「そうか」
「美味しかったです、ご馳走様でした」

これだけで良いのか、と言いたくなるような量ではあったのだが、今日一日あった事を考えれば。
食も細くなるだろう。
この行為が終了するのは、少し寂しかったが。

「梨があるぞ」
「食べます!」
「お腹いっぱいじゃなかったのか」
「デザートは別腹です」
「ったく」

嬉しそうに梨を頬張る姿を見て。
短時間で何度欲情したか振り返り、理性の無さを痛感していた。


風呂に入れてやらなければと、薫を浴室へと連れて行く。

「自分で出来ます」
「出来る訳無いだろう」
「だっ、て」
「服、脱いで」
「やだ、恥ずかしいです」
「…俺も脱ぐ。それなら良いだろう」
「だって、俺だけ見えないんですよ?それって不公平じゃないですか」

ぷん、と膨れる薫の台詞に思わず揺れた。
誤解してしまいそうだ。

「馬鹿、男同士で何を言ってるんだ」
「…そうですけど」
「さ、脱いで」

包帯で隠された双眸の色は分からない。
だが、頬は確実に赤く染まっていた。


柔らかい泡に包まれ、微かな体温を感じ。
俯きながらされるがまま洗われている薫。
滑らかな肌へ触れながら、改めて犯人に対する怒りが沸き上がる。

「…跡が残らなくて良かった」
「係長が直ぐに処置してくれたお陰です」
「本当に、済まなかった」
「もう良いですって。係長に怪我なかったし」

泡を流すと、手を取り浴槽へと誘導する。

「…嫌です」
「何が」
「独りで、入るのは…嫌です」
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ