長編.夢 本置き

□Ordinary fool
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目覚ましはけたたましい汽笛の音だった。
汽笛の音と部屋の震えに驚いて、ナマエは急いで体を起こした。
私、昨日疲れて寝ちゃったのか……。
ぼーっとしながら立ち上がると、ベッドのスプリングが昨夜と同じように不気味な音を立てる。
眼下のワンピースはしわだらけになってしまっていた。
伸びをしてシャワーを浴びようとその場でワンピースを脱ごうとすると、寝ぼけた頭にリドルの咳払いが聞こえた。
あ、そうか、リドルがいるんだ……ってことは見えてるってこと?
―――見えてなければいいってものじゃないと思うけど。
ここは確かに自分以外誰もいない。
しかし日記のリドルを一人とカウントすれば話は別である。
というより、どのくらいリドルには見えているのか……。
その方がナマエは気になった。
「……そうだね」
―――それから、言おうと思っていたけど……。
「なに?」
―――ハンドバッグに下着と一緒に入れるのはやめてくれ。
ハンドバッグに下着……下着……。
どういうことだろうかとナマエは昨日の記憶を辿り、マダム・マルキンの店で買った衣類諸々をハンドバッグに詰め込んだことを思い出した。
そして、あの時、日記が顔面にぶつかって痛い思いをしたことも。
「……あぁ!なるほど!」
少し日記が怒ったように見えたのはそういうことだったのか。
リドルは下着と一緒に入れられて、怒って私にぶつかってきたのだ。
なるほどなるほど、とうなずいていると頭の中でリドルが「さっさとシャワー浴びてきなよ」と急かすので、いそいそとハンドバッグをもって浴室に向かった。
結局、どのぐらい見えているのかについては聞けずじまいだった。

ナマエはシャワーが終わった後に着替えがないことに気が付いたが、ワンピースをもう一度着る気にもならず、なんとなくホグワーツの制服に着替えることにした。
憧れのホグワーツの制服、うきうきしないはずはない。
ハンドバックから必要な服を取り出し、鼻歌を歌いながら学校指定のシャツとスカート、慣れないながらもネクタイを締める。
組み分けの済んでいないネクタイは灰色だった。
そしてローブに腕を通すと、見た目はコスプレのように見えてしまうのだが、しっかりと重みをもった生地なせいか現実味はあった。
ローブはぴったりというよりは少し大きいくらいで、マダム・マルキンの心遣いを感じられた。
すーっと深呼吸をすると高揚感に満たされた。
「ほんとにホグワーツの生徒になるんだ……」
本当の本当にあの学校で、私……魔法を学ぶために暮らすんだ、ホグワーツに。
浴室に備え付けられた欠けた鏡からのぞく自分は、にこにこと笑いかけていた。
そうだ、リドルにも自慢しよう、自慢になるかどうかわからないけど。
とにかく気持ちはホグワーツ、るんるんとした足取りで部屋に戻りリドルを呼んでみる。
「リドルさーん」
呼びかけてみたが、肝心の人物、もとい日記から反応はない。
ナマエは首をかしげながら、ベッドに投げ出したままの日記を持ち上げもう一度呼びかけてみる。
「聞いてる?」
―――……なに。
「怒ってる?」
―――別に何もないよ。そんなことより朝食はいいの? あいつとの約束の時間に間に合わなくなっても、僕は困らないからどうだっていいんだけど。
「あ、そうだった、朝食」
アルバスは午前十時に漏れ鍋まで迎えに来てくれることになっている。
じゃあ今何時なのか。
きょろきょろと部屋を見渡すも時計らしきものはなかったのだが、視界に映った窓の外に大きな時計が見えた。
朝汽笛をお見舞いしてきた鉄道の駅の天井部分に掲げられた大きな時計は午前九時を指し示している。
私は先ほどまでの自慢も忘れて、リドルに言われるがまま、朝食のために部屋を走り出た。
頭の中で「待て」という声が聞こえた気がしたが、部屋が遠ざかっていくにつれて遠くなっていったので、私は少し面白いと思ってしまった。
私とリドルの意思疎通は距離が離れるとどうやらできなくなってしまうらしかった。

朝の漏れ鍋は昨夜とうって変わって、日差しが窓から多く入るようにしてあるのか明るい店内だった。
しかし、空気はあまりすがすがしいとは言えず、ほこりっぽさや人の密集したにおいを感じた。
古めかしく使い込まれた長テーブルにイスがずらりと並んでおり、魔女や魔法使いがまばらに席に着き、朝食をとっている。
映画で見たように指を回しながらスプーンでコーヒーを混ぜている人もいれば、動く写真が目を引く『日刊預言者新聞』を読みながら議論を楽しむ人もいる。
あまり凝視しても失礼だろうと思い、他の人とつかず離れずの席に着くとバーカウンターからトムさんがにこにことこちらに向かってくるのが見えた。
トムさんは私の席に近づくなり挨拶と嫌いなものはないか、飲み物は紅茶かコーヒーかを聞いた後、さっさとバーカウンターに帰って行ってしまった。

何かするでもなく、あたりを見回す。
ちらっとみた『日刊預言者新聞』には、頭に鍋らしきものを括り付けた男が笑顔を向ける動く写真が見えた。
あれは一体何だろう。なんで頭に鍋?
そのまま凝視していると辛うじて日付が確認できた。
1960年7月16日……。
「……」
ナマエは急に動悸が止まらなくなった。
それもそのはずだ、自分の知っている作品内の年代と遠くかけ離れている。
そうか、妙に古めかしいと感じたのはそういうことだったのか。
自分の中で合点するとともに、急に足元がうすら寒くなっていく。
これはまるで言葉のわからない異国に一人で旅行に来たような……いや、言葉のわからない異国にいるのは間違いない。
一人で席に着いたナマエを襲ったのは不安と孤独だった。
頭の中で何を考えても返事がない、そばに見知った誰かを感じない。
今は不信感の拭えないリドルでさえも恋しいと思えた。
もちろん、リドルは日記で記憶なのでそばに実際にいるわけではないのだが、頭の中で声がするだけでも十分存在を感じることができた。
頭の中で誰かに語りかけてもふつう返事はない、ある方が異常といえるだろう。
しかし、リドルと話をするせいか返事がないというのは空をつかむような感覚ですかされた気分になった。
急いでいるからと言ってリドルを置いてきてしまったのは失敗だったかもしれないと脳裏をよぎる。
リドルのことは正直不信感が拭えない、一方で常に頭の中で会話するせいか短い期間の間にリドルとはよく話すようになった。
私が思っていたよりもリドルは悪趣味で手段を選ばない人のように思えたし、それに失礼だったりする。
彼は持ち前の才能で私の考えを簡単に、いつでも、どこまででも読むことができるのだろう。
それが恥ずかしくもあるし、他人に考えを読まれることを嫌だと思わないことはない。
しかし、何となくではあるが彼自身の中で境界というのか、何もかも私の考えを読んでいるというわけでもなさそうな気がしている、気がしているだけで実際はわからない。
そう考えてしまうのは私がリドルを好きなキャラクターだから甘く見ているだけなのか、これもまた彼の何らかの策略の一つだったりするのだろうか。
悩んでもリドルの頭の良さに勝てる気がしなくて、早々に諦めた方がいいような気がした。
こうして悩むことさえも策略かもしれないと思えてくるからだ。
それに昨日の記憶のことも一晩寝て落ち着いた今、私の妄想を捻じ曲げて見せたにしても悪趣味過ぎるし、今の私には利用価値がないとリドルは言っていた。
私にそこまでする必要があるだろうか。
いや、全部嘘ならいずれ私の魔力が安定するだとか、増加した時に根こそぎ奪われて、秘密の部屋に死体として転がっているという未来もあるかもしれない。
うーっと悩んでいるとトムさんが朝食と紅茶のセットを持ってきてくれた。
今朝焼いたクロワッサン、豆のスープ、ゆで卵、果物……それぞれの料理の量が少し多いような気がしながらも私は朝食に手をつけることにした。
豆のスープは確か作中に出てきたような……早く食べないとなくなってしまうほど美味しいらしい。
一口豆のスープを飲んでみる。
「ほんとに美味しい」
漏れ鍋で一番好きな料理は豆のスープになりそうだ。
ああ、早く部屋に戻って置いてきたリドルに謝らないと。

朝食を終えて、そーっとナマエが自分の部屋に戻ると、ベッドの上の日記はせわしなくパチンパチンとまるで怒っているように動いていた。
置いていったことに怒っているのか、「待て」の声を無視したのを怒っているのか……はたまたその両方か。
とにかく、怒っているなら謝らないと。
「ごめんね、置いて行って」
―――……僕は『待て』って言ったんだけど。
怒ったようなリドルの声が頭に響く。
相当怒っている可能性もあるなと思いながらナマエは苦笑いを浮かべた。
「あ、そっちでしたか」
―――僕のことは肌身離さず持っていくようにしろ。
「なぜ……」
―――君が馬鹿なことをして取り返しのつかないようなことにならないように。
この日記はとにかく人を馬鹿扱いするのが好きらしい。
なぜだろう、とても涼しい顔をしながらさも当然かのようにして言い放つ姿を想像するのは易かった。
ナマエはむっとなりながら、少し大きめの声でリドルに応戦した。
「馬鹿馬鹿っていうのやめてよ。そりゃリドルに比べたら馬鹿かもしれないけど、一応知識はあるつもりだし」
―――中途半端な知識となんの経験もない君が、僕の助けや知識なしにこの世界で生きていけると? それは随分と……。
「馬鹿、っていいたい?」
―――わかってるじゃないか。
思わず奥歯を噛みしめてしまうほどむかついたが、それもまた事実である。
実際、私は完全に魔法界の常識や知識を持っているわけではないし、体験を伴ったものでもない。
それは実際に魔法界を生きてきたリドルと比較すれば圧倒的に劣る。
「……そうですね、はい」
私はこの時、少し嫌な予感がしたが、その予感は的中する。
―――そこでだ、僕は君に必要であればこの魔法界での常識や知識を与えるよ。その代わり……。
リドルが提案してきたのは取引だった。
こいつ……ついに本性を現しやがったな……。
―――考えは読めるって言ったはずだけど。
「はい、ごめんなさい。でもその代わり命差し出せとか、奴隷とか奴隷同然になるとかそういうのはやめて」
私は日記の前で手を合わせたが、この体勢をお願いのポーズだとリドルが理解してくれているかはわからない。
どこからかリドルの呆れたようなため息が聞こえる。
そんなに私は馬鹿っぽく見えているのだろうか。
―――僕を必ず肌身離さず携帯すること、後魔力も少々いただくよ。
「その魔力を少々というのは」
それは決して料理の本に書いてある塩を少々ぐらいの少々ではない気がした。
それに魔力が減ってるとか減ってないとか、どうやったらわかるんだ。
少々といいつつ、ごっそり奪われて意識不明に……なんてことはないだろうか。
―――ちょっと眠くなるくらいかな。大丈夫、君が寝てる間にもらうから支障は出ないよ、おそらく。
「そのおそらくが怖いんですけど」
―――文句は聞かない。わかったら返事は? まぁ、拒否するなら話は変わってくるけど……。
私の『魔力少々』が何に使われて私自身がどうなってしまうのか、戦々恐々なのだが。
これはおそらく、『いいえ』を言わせないし、この条件を飲めということだろう。
なんだったらもうこの話を飲んでいるという体で話を進めている節すらある。
でもここで『いいえ』なんて言おうものなら、どんなことをされるか考えただけでも恐ろしい。
「わかりま……した」
―――じゃあ改めてよろしく、ナマエ。
きっと今リドルは笑っているんだろうなと直感的に分かった。
ほとんど脅しに近いな、と思いながら私は未来の闇の帝王と契約を結んでしまった。
リドルの機嫌を損ねたら今度こそただじゃすまないな、とナマエは冷や汗をかいた。
一方でリドルとの会話が、ナマエの胸に渦巻く不安と孤独の存在を一時忘れさせた。

20190302執筆
20190304加筆修正
20190307加筆修正
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