小説その2

□南十字星(サザンクロス)
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ラナンキュラス(花金鳳花)のつづき。
※事故で記憶混濁して、もっさんを恋人だと思い込んでしまった雲雀さん視点のおはなし※



僕の恋人はとても忙しい。

そう、もし僕が怪我をして病院に担ぎ込まれたとしても、すぐ駆けつけることなどできないくらいに、忙しい―――はずだ。

だって彼は……彼は…

彼?

(名前は?)
(仕事は?)
(どんな髪だった?)
(どんな瞳の色だった?)
(どんな声で僕を呼んでいた?)

何かがおかしい。
いくら思い浮かべようとしても、ぼやけて霞んでどんな姿なのか……どうしても、思い、出せない。



◆◆◆



―――苦しい。
全身がぎしぎしと軋んで悲鳴を上げている。
苦しくて辛くて、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような重苦しい感覚が僕を襲う。

一体どうしたんだろう。そもそも僕は何をしていたんだろう。
何故だろう、訳のわからない断片的な映像がぐちゃぐちゃになって僕の周りを舞い踊っているようだ。

『……―?』
名前を、呼ばれた気がした。(名前? 今のが?)
とても心配そうに、とても不安そうに。

うっすらと瞼を持ち上げてみると、最初は全く認識できなかったのだが、やがて見慣れない白い天井が視界に映った。
他にも見覚えのある医療器具、身体に繋がれたチューブ。視界の端にそれらを見つけて、そして自分の身体がまるで他人のもののように動かないことで、理解した。
どうやら僕は、病院のベッドにいるらしい。消毒薬の匂いが、やけに鼻についた。

「…―――?」
また、誰かの呟く声がした。
それは、何を言っているのか判別できないほどに、震えて掠れた涙声だった。(心地良い、声だね)

僕は僅かに首を傾けて、そして―――そこに『彼』がいるのを、みつけたのだった。


真っ赤になった鼻をすすり上げて、眦に涙をいっぱい溜めて、掛け布団をぎゅっと両手で握り締めて。
彼は何度も何度も何かを呟きながら、僕をただひたすら見つめていた。
ひたむきで、愛おしさの溢れる澄んだ瞳で。


僕は微かに微笑むと
「きみ、来れたんだ?」と呟いた。

僕の恋人はそれはそれは忙しい人で―――。
たとえ僕が病院に担ぎ込まれたとしても駆けつけるなんてできないはずで―――。
前言撤回。
僕の恋人はとても忙しい人だけれど、僕が本当に側に居て欲しいときには、ちゃんと側に居てくれる…ひと、だ。


彼は驚いたように真っ赤に充血した瞳を見開いて、首を傾げつつも同意していた。
僕の左手にそろそろと指を這わせて、それから感極まったようにぎゅっと両手で握りこんで。
情けない顔つきで多分笑顔らしいものを浮かべようとして―――失敗してぼろぼろ子供みたいに大粒の涙を流し出した。(きれいな、涙)


その後また視界がくにゃりと歪んで、恐ろしい吐き気が襲って来て―――後のことは全く覚えていない。






次に目を覚ましたとき、あれは夢だったのかな…と思った。

不思議に現実感のある夢だったな。
そう思って起き上がろうとしたのだが、全身が鉛のように重たくて殆ど動くことが出来ない。
そこでやっと、病院にいるのは夢じゃないことに気がついた。
先ほど見たのと同じ白い天井が目に映る。
身体のきしみ具合で、病気ではなく怪我で入院したらしいと判断できた。
麻酔が効いているのか痛みは余り無いが、そのせいで詳しい怪我の箇所は良くわからなかった。

どうしてこんな事になったのか思い出そうとしても、まるで頭の中に靄がかかったみたいに曖昧で、はっきりしない。
僕は瞳を閉じて大きく息を吸い込んだ。

何故だろう、なんだか、全てがどうでもいい。(このままのほうが、きっと――)

―――でも、彼は無事だったろうか。傷ついてないだろうか。最悪の事態になってないだろうか。(彼は生きてる?)

不意に心に沸き起こった疑問に、自分でも首を傾げる。
彼? 彼って、誰のこと?
どうしてこんなことを思うんだろう? 思考がぐちゃぐちゃで、ちっともまとまらない。



ふと、なんとなく気配を感じて、僅かに首を左に傾けてみる。
そしてそこに、椅子に座ったまま僕の布団に突っ伏して眠っている、『彼』を見つけた。


―――さっきの、夢じゃなかったんだ。
僕は不思議な気持ちでその姿をじっと見つめた。
そろそろと左手を布団から出して、その緑の黒髪を撫でてみる。
思ったよりも、短いんだね。(何故そう思ったのかは、よくわからない)

彼は、すよすよと気持ち良さそうな顔で寝こけていた。
頬には涙の後が残ったまんまだし、口元からはだらしなくヨダレが垂れて布団が少し湿っている。
それはあんまりにも情けない姿で、思わずくすくす笑ってしまったら、彼がもぞりと身じろぎした。
起きるのかな、と思って暫く眺めていたけれど、彼は至極幸せそうな顔でだらしなく口を半開きにしたまますこすこ眠っている。(なんて、無防備な)

「間抜けな寝顔。情けないったら。」
前髪を掻き揚げてみると、閉じられた瞼がぴくぴく動いていた。
見かけよりも手触りの良い黒髪を、ツンツン引っ張ってみる。
こんなに髪の毛、黒かったっけ。(何故そう思ったのかは、やっぱりよくわからない)

髪をいじり続けていたら、彼の顔がくしゃっと歪んで「……う〜〜〜?」と妙な唸り声を上げだした。
それがまた面白くって、くすくす笑いながら髪をもっと引っ張ってみた。

「ん〜〜、なんだぁ? ………って、―――!」
彼は素っ頓狂な声を上げながら飛び起きて、良くわからない単語を叫んだ。
そういえば、さっきもそれ、呟いていたよね?(あれは夢、かもしれないけど)

僕は起き上がったりは出来ないから(全身言うことを聞かない)ベッドに横たわったまま
「おはよう。」と言ってみた。
彼は僕の顔を食い入るように見つめて唇を震わせて、また鼻をすすり上げながら僕の左手をずっと握り締めていた。

身体を起こした彼は均整の取れた逞しい体つきの男で、僕よりも背が高いようだった。
なんとなく(昔は小さくてふわふわだった)というイメージが頭を過ぎったのだが、その姿を明確に思い出そうとしても、顔も身体ももやもやとぼやけてしまって、どうしても思い出せない。

僕は思い出そうとして………すぐに止めた。
考えなくても、彼は今、ここにいる。

昔はひょろひょろだったのかもしれないが、きっと想像以上に逞しく成長したのだろう。
それでいいんじゃないの? どうして昔のことなんか、思い出さなくちゃいけないの?
僕は外見に拘りなんてないから、彼がどんな体格でもあまり気にならないし。
大きな図体をしているくせに、涙でいっぱいの瞳はまるで大型犬のように愛くるしくて、思わず頭を撫で撫でしてあげたい気持ちにさせられた。

なによりも、彼の纏う雰囲気が僕の心を凪いでくれて。
ひたすら僕を気遣う仕草、想いをこめて見つめる視線、僕の手を握っている彼の掌の温かさ。
ずっとずっと側で見守ってくれていた……そんな安心感が僕を包んでくれる。

そう、忙しくて僕のことなんか忘れてるんじゃないかと思えたような恋人が―――今、ここにいる。
ただ、それだけで、良かった。





どうやら彼が何度も口にしていた耳慣れない単語は、僕の名前だったようだ。
彼は事あるごとにそれを連呼し、僕はすんなりとそれを受け入れた。

ひばり。それが僕の名前。

実は、頭の中は相変わらずぐちゃぐちゃで、実感はまるで無かったのだが…。
彼がそれはそれは嬉しそうに僕を呼ぶから、(それでいいか)と好きにさせておいた。


入院生活は、最初は苦痛でたまらなかった。
彼以外に触れられるのがどうしても嫌で、嫌で、嫌で。
でも身体は殆ど動けなくてどうしようもないから何もできなくて。

そうしたら突然、彼以外が近づいてくることが一切無くなった。
どうやら熱に浮かされた僕は、うわ言でずっとそのことを訴えつづけていたらしく、それを聞いた彼が病院に掛け合ってくれたらしい。
「俺、へたくそだと思うけど、頑張るからな。不自由させてごめんなーヒバリ。」
そう言って、笑ってくれた。

自分で言うだけのことはあって、彼の看護は本当にへたくそだった。
包帯を巻くのだけはどうにか及第点だったが、着替えや食事などは酷いもので。
特に食事は悲惨で、彼が食べさせてくれようとした後は、シーツから布団カバーから寝間着に至るまで、総取替えしないといけないくらいだった。
それでも慣れない手つきで懸命に僕の看護をしようとしてくれる彼が、とても―――愛しかった。
「こんなものが見れるなら、怪我をするのも悪くないね。」と言うと、「ごめん、ごめんなヒバリ! 俺、もっと練習するのな!」とものすごく気合を入れられたあと、へへっと照れくさそうに笑われた。


その人好きのする爽やかな笑顔を見ながら、僕はためらいながら口を開いた。
「ねぇ、きみ……仕事、大丈夫なの?」

僕の恋人はとても忙しい人で―――だって、彼は、彼は……。
彼は、なんだったろう? (思い出せない)
ちらりと何かが脳裏を過ぎった気がしたけれど、目の前の彼が不思議そうな顔をして首を傾げているのを見ていたら、どうでも良くなった。

「………? おう、一応問題無かったぜ?」
彼はすぐに破顔して、『当分俺の出番は無い』と言った。
それって、ずっとこのまま、僕の側に居てくれる……ということ? (まさか、ね。でも、本当に?)
俄かには信じられなくて、俯いてしまう。

すぐ……また、仕事にいくのかと、思った。いつもみたいに。いつも…(いつもって?)

僕は知らず、口に出してしまっていたらしい。
「はぁ? なんでー? あんた一人残していかねーよ。」
僕の不安を払拭するかのように、彼はきっぱりとそう言ってにかっと笑った。


そして、本当に彼は…僕の側を離れることが、無かった。(信じられない)

起きたら彼が消えてるんじゃないか、と思うと、眠るのが怖かった。
これは怪我の発熱が見せる夢なんじゃないか、と思うと、瞳を開けるのが怖かった。

眠る度にひどくうなされる僕を、その都度彼は優しくゆすって起こしてくれては、ぎゅっと手を握り締めてくれた。
「大丈夫なのな。すぐ良くなるから。ヒバリ…ヒバリ。大丈夫だから。」
汗にまみれた前髪をそっとかき上げて、丁寧に拭いてくれた後、ゆっくり額に口付けてくれて。
やっとそこで僕はまた瞳を閉じることができた。



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