小説その2

□花浜匙(スターチス)
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彼が食事の準備をしに出て行ってしまうと、白蘭は僕の髪を指でいじりながらソファーの上でごろごろしだした。
その遠慮のない仕草にも、不思議と腹は立たなかったから好きにさせておく。

「雲雀ちゃんさ、中学のときにも僕と会ってるんだけど、覚えてないー?」
「…知らない」
僕は幾分ムスッとしながら答えた。

結局この男も、皆と同じことをいうのか。
過去のことを言われるのはもううんざり。(頭…痛くなる)

「ありゃりゃ、ご機嫌斜めになっちゃったねー。でも分かってるんでしょ? 自分の記憶が曖昧で、おかしい事、雲雀ちゃんだってもう薄々気づいているよね?」
白蘭はへらへらと笑いながらそう口にしたけれど、僕を見る瞳は真剣な光を帯びていた。
「あのね、雲雀ちゃん。きみの記憶はね、事故のせい……だけじゃない気がするけど、とにかくぐちゃぐちゃになっちゃってるの。整理がきちんとついてないの。今のままだと仕事にだって支障をきたすでしょ?」
「………」
僕は黙って目を伏せた。
仕事にも支障をきたす…と言われてしまえば、言い返すこともできない。


実はあまりにも過去のことが不鮮明で、哲との仕事上のやりとりも今は殆どしていない状態なのだ。
僕が最近やっていることといえば、こうして彼の仕事場についてきて、ソファーでうとうとまどろむことくらいだ。これじゃ日向ぼっこしてる猫と変わりない。
哲には「恭さんにはうんと休養が必要なんですから!」と、逆ににこにこ推奨されてしまっているが…。


「僕が知っている子で、雲雀ちゃんと同じようなことになっちゃった人がいてねー。その人もやっぱり事故で記憶混濁しちゃって大変だったんだよ。敵のことを味方だと思い込んじゃって、味方のことを逆に敵だと思い込んじゃってねー」
僕の髪を弄んでいた指が、するりと頬を撫でていく。
「それは…大変だね」
「うん、大変だったよー。敵の幹部の一人に懐いちゃって側を離れようとしないの。その子の味方がねぇ、いくら言い聞かせても全然聞く耳持たなくて、逆に味方を攻撃しようとする始末でさ。あの時は本当に、みんな大慌てで悲壮感丸出しだったねぇ」
ちっとも大変じゃなさそうな顔で、白蘭はけらけらと笑っていた。

「あなたは、大変じゃなかったみたいだね」
「僕? …うん、僕は困惑はしたけど、大変じゃなかったねぇ。むしろ……」
白蘭は唐突にそこで口を噤んで、僕の頬をただゆっくりと撫でつづけた。
…なんだろう?


「ね、その子、結局どうなっちゃったと思う?」
ふいに耳元に口を寄せられて、囁かれる。
僕は暫く考えて、首をかしげながら答えてみた。
「…味方に、始末された、とか?」
「あはは、雲雀ちゃん物騒だな〜♪ でも残念でした、ちゃぁんと良くなってね、混濁してた記憶もきちんと元に戻ったの。数日前にたまたまネットのチャットで山本クンと話してたときにこの話題が出てね、そしたら山本クンが半泣きで相談してきたから、雲雀ちゃんの顔みるついでに遊びにきちゃった♪」
「…ふぅん」
「山本クン、よっぽど雲雀ちゃんのことが大事なんだねー。早く良くなって欲しいってすごく心配してたよー。雲雀ちゃんだって、彼に心配かけ続けるの、嫌だよね?」
僕は頷こうとして、ちょっと躊躇した。

だって今は具合が悪いのを理由にして一緒にお風呂に入ったり、ご飯を食べさせたりしてもらっているのに。抱っこしてもらったり、一緒の布団で寝たりもしているのに。
彼に心配をかけるのは嫌だけれど、それを全部無くしてしまうのも…嫌だ。

「あはは、雲雀ちゃん素直だね〜♪ 心配かけたくないけど、構ってもらえなくなるのも嫌だって顔に書いてるよ。ふふっ。あのねぇ、雲雀ちゃん。別に体調なんか理由にしなくなって、引っ付きたいときは引っ付いていいんだよ?」
「…そうなの?」
「うん。雲雀ちゃんはさ、何にもしてないとき、たとえばこんな風にごろごろしてるときにさ、山本クンがべたーっと甘えて縋ってきたら嫌? うっとおしい?」
「そんなこと…ない」
彼が大型犬みたいに照れ笑いしながらすりよって来るのは、嫌いじゃない。むしろ……かなり、好き、かも。
「だから大丈夫。なんでもないときに甘えてもらったほうが、むしろ嬉しいかも。具合が良くなったら、今度は雲雀ちゃんから色々誘ってご覧、きっと喜ぶよー。一緒にお風呂入ったり、ご飯も食べさせあいっこしたらいいよ」
「そう?」

ずっとしてもらうばっかりだったことを、今度は僕からも積極的にやってみる。
そういえば、僕が身体を洗ってあげようとしたら、彼は『体調万全じゃないから駄目』って言ってたっけ。
僕がすっかり治ったら、今度は一緒にお風呂に入ろうってこっちから誘って、彼の身体を洗ってあげようかな。彼に教えてもらったようにふわふわ丁寧な手つきで。
温泉に行くのだって、彼に連れて行ってもらうんじゃなくて、僕が彼を連れてってあげればいい。
ワゴン車をひとつ新調するのもいいな。哲に相談してみようか。
想像してみたら、ちょっと楽しくなった。

「雲雀ちゃん、くっ付いて撫で撫でされるの好きだもんね。雲雀ちゃんは一人が好きだって、べたべたするのなんか嫌いだって――そう思われがちだけど、でも本当はとっても寂しがりやの甘えんぼさんで、ぎゅってされるのが好きなんだよね♪」
ずいぶんな事を言われている気がしたけれど、いつのまにか抱き寄せられて頭をゆるゆると撫でられるのが、とっても自然で気持ちよくて…。怒る気も失せて白蘭の好きなようにさせた。



「僕…ちょっと、昔のことが…曖昧、に、なってる…みたい」
今までどうしても認めたくなかったことが、そうやって撫で撫でされていたら、するりと口から滑り出た。
「うんうん」
「彼…とのことも、本当は、よく…わからないことだらけで」
「うんうん」
「なんだか、覚えてる…ことと、今の彼…が、重ならない…ときがあるし、それに」
ふいに例の夢のことが思い出されて、背筋がぞくりとした。

押し黙ってしまった僕の背中を、白蘭がゆっくり引き寄せて一定のリズムでぽんぽんと軽く叩いてくれた。
「大丈夫、大丈夫だよー。雲雀ちゃん、今きっととっても曖昧であやふやな気持ちでしょ? 今が現実なのか夢なのか良くわからなくなって…なんだか奈落の底に落ちちゃうような気持ちに襲われたりとか、さ」
僕はびっくりしてまじまじと白蘭の顔をみつめた。(どうして…わかるんだろう?)

「うーん、今の雲雀ちゃんには、朗報なのか凶報なのかよくわかんないけど、さっきの話には続きがあってね…」
白蘭は瞳を眇めて僕を至近距離で見つめた。
「あのねー、雲雀ちゃん。さっき僕の知り合いの話したでしょ。ちゃんと良くなって、混濁してた記憶も元に戻ったって。あの話には実は続きがあってね…。その人はねー、混濁してた記憶が元に戻ったと同時に、ぐちゃぐちゃだったときのことは忘れちゃったの」
「忘れ…た、の?」
「うん。ただね、それはその人の場合そうだった、ってだけで、記憶混濁しちゃった人が全員そうなるって意味じゃないよ?」
わかるよね? と言われて、僕はこくっと一つ頷いた。
「あくまでもその人の例ね。ちょこっとずつ断片的に思い出すことはあったんだけど、大部分のことはぐちゃぐちゃのままだったの。でも、あることをきっかけにして、唐突に殆どの記憶を思い出したんだけど…。思い出した途端に、倒れちゃってしばらく目を覚まさなくってね。で、やっと目を覚ましたと思ったら、混濁してたときのことは綺麗さっぱり忘れちゃってたんだよね〜」
「…そうなんだ」
僕はそっと瞳を伏せて考えこんだ。



白蘭は『全員そうなるとは限らない』と言ってくれたけれど、逆に言うと『そうなる可能性は充分ある』ってことだよね。

病院で初めて見たときの彼は、涙と鼻水でべちょべちょのまま、僕の顔をみて笑ってくれた。
僕の看護をしようとして、スープを盛大に胸元にぶちまけてくれた彼。
暴れようとする僕に、慌てて駆け寄ってくる彼。
車椅子を嫌がる僕を、あやしながら抱いてくれた彼。
色んな料理を作ってくれては、一生懸命食べさせてくれた彼。
職場で嫌なことがあったのか、僕にすがり付いて泣いていた――彼。
マッサージを一生懸命してくれる、彼。

色んな彼の姿が脳裏に浮かんでは消えた。
これが全部、無かったことになるのかな。僕はこんな沢山の思い出を、すっかり忘れてしまうのかな。



「お医者さんが言うには、怒涛のように記憶の渦が流れ込んできたもんだから、脳がオーバーフローしちゃって、一番最近の記憶が押し流されちゃったんじゃないかって」

その医者のいうことは一理ある。昔のことは鮮明に覚えているのに、最近のことは案外簡単に忘れてしまう…なんてよくあることだ。
そう思うと、やっぱり混濁している記憶が正常化したら、今の記憶は飛んでしまう可能性が高いような気がしてきた。

不思議だな。怪我をしてから今までの期間なんて、多分これまで一緒に過ごしてきた日々にくらべたら、星が瞬くくらいの短い時間なんだろうに。
どうして…こんなにも『忘れたくない』って思う自分がいるんだろう。


「雲雀ちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫だよー。こんなのそれぞれ症状が違うんだし、覚えていられるかもしれないんだから、気にしない、気にしない〜♪」
「…でも、忘れる、かも」
「…でも、忘れないかも♪ あんまり深刻になっちゃだめだって。山本クンだって心配しちゃうよ〜? ずっと雲雀ちゃんに元気になって欲しいって心を砕いてるのに、可哀想じゃん」

…可哀想。
僕は庭で一生懸命テーブルセッティングをしている彼の姿を、振り返って窓越しに眺めた。
また色んな料理を用意したみたいで、両手で大きな銀のお盆を運んでいた。
その姿を見ていたら、やっぱりちゃんと体調万全になって――記憶もきちんと思い出さなくちゃ、という風に気持ちが傾いてきた。(…ほんのちょっと、だけね)

「じゃあ、不安な雲雀ちゃんにひとつ、プレゼントしちゃおうかな」
白蘭は僕の手をそっと取ると、右の人差し指にするりと指輪を嵌めてくれた。
「これ、おまじないね。ただのおもちゃだから価値は無いけど、雲雀ちゃんが彼のことを忘れませんようにってね♪」
その指輪ごとぎゅっと掌を握りこまれて、そして白蘭はただにこにこ笑うだけだった。(どうしてそんなに…懐かしそうな目つきで僕を見るの?)


「あなた…僕のこと、好きなの?」
ふとそんな言葉がさらりと口から滑り出た。
ほとんど初対面の相手に、聞くことじゃない気はしたんだけれど。(本当に、何故だろう)
僕を見つめる目つきが…どう言えばいいんだろう、すごくお気に入りの猫かなにかを見るような? ううん、ちょっと違うかな。どちらかというと哲のそれに似てるから…かも?

「ん? ……うーん。さぁ、どうだろうねぇ♪」
白蘭はさもおかしそうにけらけらと笑って、そして頭をまた撫でてくれた。
「さっきも言ったけど、僕、人のモノを盗るシュミ、無いから。…だから、雲雀ちゃんがずーっと幸せでいてくれれば、それでいいんだよー」


そして白蘭は立ちあがると、ひょいと僕を横抱きに抱き上げた。
「さ、そろそろ準備できる頃だから、お外行こうか〜。僕が山本クンの代わりに抱いてってあげるよ。しっかり捕まっててね」
特に反対する理由も無かったし、別に嫌じゃなかったので、言われたとおりにおとなしく白蘭の首に腕を回した。

「うん、いい子いい子〜。…ね、雲雀ちゃん。もしも、ずーっとずーっと後に、万が一だけど。雲雀ちゃんが一人になっちゃったら、僕のこと呼んでね。そしたら一緒に楽しく暮らそうよ」
「…ずーっとずーっと後?」
「そう。ずーっとずーっと後に、ね」
僕は暫く考え込んだあと、こくっと一つ頷いた。
それはあまり考えたくないことだけれど、彼が先に逝ってしまうような、そんな場合のことかな、とぼんやり感じたから。
彼が僕の側に居ない、そんな未来でなら、それもいいかな…と思えた。

「嬉しいな〜♪ 雲雀ちゃんと楽しい約束しちゃったよ。…ふふ、覚えててね。僕はいつでも待ってるから」
「ずーっとずーっと後のことなんでしょ? あなた、きっとそんなに待てないよ」

そんな適当な約束、すぐに忘れて『あれ? そんな約束してましたっけ?』とかいうに違いない。
だってその場のノリで言った口約束なんて、みんな日頃の忙しさにかまけて、どんどん忘れていってしまうものなんだから。
いつまでも覚えてて期待してると、バカを見るだけなんだから。

「待てなくて、他の人とさっさと楽しく暮らすんじゃないの?」
そう僕が言うと、白蘭は猫みたいに眩しそうに瞳を細めた。
「あははー、そうかもしれないねぇ。…そうだと、いいねぇ」
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