小説その3

□こっそり『ねこ』裏話〜すれ違いだらけの協奏曲
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★★★

「先生、どうもありがとうございました」
「ほい、お大事に」
午前中の最後の患者を送り出した後、男は机に座って分厚い医学書に目を通していた。

男はイタリアのとある貴族のお抱え医師だった。
昔、その貴族の家族が難病にかかった時に一時期治療にあたっていたのが縁で、数年前に赴任してきたのだ。
それ以前は何をしていたのかというと、誰もはっきりとは知らなかった。
戦場で巡回医師をしていただの、最先端の研究施設で極秘任務に当たっていただのという噂が流れたこともあったが、男は適当に笑い飛ばすだけだった。
彼は貴族の城の商業施設エリアの一角に用意された診察室で、簡単な怪我や病気の診察を行っていた。
近くの村にも診療所を設けており、そこに往診することも良くあった。
男は人間だけでなく愛玩『ねこ』の治療もできる医者として、方々から重宝がられていた。
そのため貴族の知り合いから出張診療を頼まれることも多く、実際男の予定表には明日からの出張の予定が書き込まれていた。

大きく開け放った窓から小鳥の鳴き声が微かに聞こえてくる。
微かに木々を揺らす程度だった気持ちの良い風がふいに勢いよく部屋に流れ込んできて、男が読んでいた本のページを数枚捲った。
ふっと男の口元が緩み、そのまま本をぱたんと閉じた。

「久しぶりだな、暴れん坊主」
視線は机の上の本に向けたまま、男の口が動く。
「へぇ、僕のことがわかるの」
いつの間にか部屋の中にはもう一人の人物が佇んでいた。
漆黒の瞳と髪が影の中におぼろに浮かび上がっている。
窓のすぐ側で腕を組んで壁に凭れ掛かっている黒づくめのスーツ姿は、静かに周りに同化する野生の獣を連想させた。
「そりゃまぁ、な。お前さんは随分と印象的な『暴れん坊』だったからなぁ」
何かを思い出したように、くすりと男が笑みを漏らした。
「ふぅん。まぁいいか。そういえば貴方だけだったね。『にんげん』の振りをした僕に騙されなかったの」
「俺に言わせりゃ、なんで他の奴らが気付かないのか不思議だったがな」
「あなたが特別なのさ。普通は気付かないはずだよ。だって僕が『そう』してたんだから」
黒い影はつんと顎を反らして男をねめつけた。
「やれやれ、ま、そういうコトにしておくか。あまり深く突っ込むとこっちの身が危ないからな」
男は軽く肩を竦めると、くるりと椅子を回して窓のほうへ体を向けた。
「それにしてもお前さん、立派に成長したなぁ。何かと小生意気な口をきいて暴れまわってた坊主とは思えん」
「暴れまわってなんかないよ。咬み殺してただけだよ」
「本当、小生意気なところは変わってないな」
男はしみじみと昔を懐かしむような表情をして、それから一瞬躊躇った後口を開いた。
「そのー…、なんだ。ちび助は元気か?」
「もう『おチビ』じゃないよ」
「そうか」と、男はうっすらと微笑んだ。
「そうか。もう、ちび助じゃないのか。じゃあ…無事に成長できたんだな」
「さぁ、どうかな」
答えはなんとも曖昧なもので、男はそれを聞いて眉をひそめた。
「あまり良くないのか? だから、元主治医だった俺のところに来たのか? だが俺はもう『ねこ』の治療からは一線を退いててあまり役に立たないぞ。スイスの研究所に連絡したほうが確実に……」
「ねぇ」
切れ長の黒曜石のような瞳が、じっと男に向けられる。
「医者としての貴方は別に必要ない。――あの子の、初めての『飼い主』になったかもしれない貴方に、僕は会いに来たんだよ」
「いやぁ…しかしなぁ、どうも俺はチビ助にあまり好かれてなかったみたいだし、今更顔を出したところでなぁ」
苦笑いを浮かべながら男はガシガシと頭を掻いた。
「ふぅん、そう? でもあの子は、自分のほうが貴方にあまり好かれてなかった、って思い込んでる」
「そりゃまた一体全体どういうこった」
「あの子がどうしようもないくらい思い込みが激しくて早とちりだってことだよ」
で、どうするの。と黒い影はじいっと目線を男に注いだ。
男は暫く難しい表情で考え込んでいたが、やがて深いため息をついた。
「そうか。なら、詳しく聞かせてもらおうか、雲雀。アラウディに何があったのか」

★★★



「もう、何なのあれ、何なのあれ!」
アラウディは寝室のベッドの上に座り込んで、枕をバシバシと叩きつけた。
「せっかく、ちょっとは僕が悪かったかなぁって、譲歩してあげたのに…」

最近、アラウディはちょっとした誤解で、『飼い主』の山本に対して感情を爆発させて大騒ぎしてしまった。
遅くまで飲んで騒いて帰ってきて(これはまぁ『仕事上の付き合い』で無理やり納得した)、その上仕事中も若い女性と密着して(いちゃいちゃしてるね、と子ヒバリ談)いるのをテレビで目撃して、どうにも我慢できなくて大泣きした上に風呂場に籠城したのだ。
その後のことは殆ど覚えていないのだが、どうやら『逆行』して仔『ねこ』になっていたようだ。
実はそれらは全て白蘭が無理やりさせた仕事で、人が良すぎる山本は断り切れなかった、と雲雀が教えてくれたので、アラウディはちょっと大騒ぎしすぎたかなと思い、自分から山本に話を切り出した。
山本のほうも良い感じで対応してきて、これでまた彼を『ゆうわく』する雰囲気にもっていこう…とアラウディが勇気を振り絞った瞬間、あの気が利かない男は事もあろうに『他の男をパートナーにしたいのか』などと言い出したのだ!

かしかしと枕をかじりながら、アラウディは一生懸命考えてみた。
『ねこ』のアラウディと『飼い主』の山本の関係は、始めから順調とはとても言い難いものだった。
山本が飼い主に立候補したそもそものきっかけは、山本がアラウディにキスをしたことだったはずだ。
確かにその事実があった……とアラウディは思うのだが、日がたつにつれてその記憶は曖昧になり、今では本当に彼にキスされたのかどうか怪しいと思いだしていた。

そもそもおかしいのだ。
まだまだ幼年期の子ヒバリが触れるだけの軽いキスをされたというだけで、やれ責任を取れだのやれ試練だのと大騒ぎをした白蘭と雲雀が、自分と山本に関してはそれほど騒いでないのである。
実際はアラウディが夢うつつになっているあいだに大騒ぎに(特に白蘭が)なっていたのだが、そのあたりの記憶はアラウディには怪しく曖昧で殆ど覚えていなかった。

お酒を飲んで酔っ払ってしまったあの夜、確かに何かがあったのは間違いない。
次の日に部屋を訪ねてきた山本は、しきりと昨晩の非礼を詫びて、そしてアラウディが『かわれない』ようにする、と約束してくれたではないか。
その『何か』が、アラウディはずっと山本が『おしおき』として自分にキスしたことだと思っていたが、本当は違ったのかもしれない。
それは、自分にお酒を勧めまくって酔わせたこと?
それとも、綱吉に絡んだ自分を叱ったこと?
あるいは、自分でも覚えていない他の何かのこと?

何が何だかわからないうちにイタリアに帰ることになったため、アラウディに事情を詳しく説明してくれる人は居なかった。
草壁たちは山本が説明するだろうと思っており、山本のほうは逆に草壁たちが説明するだろうと思っていたため、結局だれもアラウディに詳しい説明をしなかったのだ。
山本がアラウディに伝えたのは『お見合い相手には買われなかった』ということと、『自分が飼い主になってアラウディと一緒に暮らす』ということだけだった。

リボーン(アラウディは彼のことは最初からかなり気に入っていた)が言うには、山本はとても責任感が強いという。
だから、自分に仕出かしたことの責任を取るために、別に好きでもなんでもない『ねこ』の飼い主に立候補しただけなのかもしれない。
そうでなければ、たいした能力もない、そしてちっとも可愛げのない『ねこ』の飼い主をわざわざ引き受けるなんてあるはずがないではないか。

そう、お見合い予定の相手からも、『買われなかった』くらいなのに。
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