book2

□おやすみ、おはよう、
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『くしゅん、ずび』

寒空の中を静かに走る各停の通勤電車の中で、私はくしゃみをした。そしてついでに鼻水をすすった。ちらと周りを確認するけれど怪しい目で見られてはいない。よかった。
考えを切り替えるために両手でつり革にしがみつくかのように掴まって、周りに聞こえないように浅い溜め息をつく。

つり革がギシリ、と軋む音は彼女の耳には届かない。その耳には彼女のポケットから両耳に向かって別れている黒い━━イヤホンが付いている。だけれど彼女の心は音楽に傾いているわけではなさそうだった。彼女は今、非常に眠いのだから。

『(うー…ねむい。)』

つり革に身を任せ自分の腕に頭を預けると、彼女は軽く目を閉じた。しかし、軽く閉じられたはずの目は睡眠を欲している彼女によってなかなか開かれない。と、ふとガタン、という電車が停車した衝撃によって彼女の意識が醒める。まるでその衝撃が寝るなとでも言っているようで、彼女の心のもやもやは増幅した。

『(あー、彼(あいつ)の駅だ…)』

醒めたついでに瞳に映ったのはクラスメイトで仲の良い男友達が利用している駅だった。乗ってくるだろうかと思ったが、この状態ではまともに話せそうにない。むしろ失礼なことすらしそうである。
そこまで考えて、また視界はブラックアウトした。瞼の重さに堪えられなかったのだ。

『(周りに迷惑かけないようにしないと…)』

うつらうつらと電車の揺れに抵抗することなく船を漕ぎながら、できるだけ体を縮める。と、隣の人が入れ替わる気配がするが、そちらを見ることすら億劫で見なかった。見なかった。

「━━、━━━━━、」

何か聞こえるが、イヤホン越しな上に眠さが重なってスルーしたのがいけなかった。さすがに自分へのクレームか、と思い始めてそちらを向こうとしたとき、ずぽり、と耳の一番近くから音がしたのと同時に耳に慣れた解放感が訪れる。

「おはよう」

囁くように耳元で放たれた言葉は間違いなく友人から自分に向けてのもので、私は重い瞼を一所懸命に持ち上げて言葉の主である友人を見ざるを得なかった。

『お、はよ』

喉から絞り出した声は、自分でもわかるほど掠れて弱々しかった。擦れた喉が地味に痛い。

「眠そうだね。」

『うん、徹夜、しちゃったから、』

只でさえ顔色が悪いと親に言われていたのに、寝不足が重なった事によって私が授業で寝る確率は格段に上がった。あぁそういえば今日の数学の授業確か確率だったような。

「授業で寝る確率、89%」

『う、流石に認めざるを得ないと言うか、ふあぁ』

脳が酸素を求めるその行為に体は従順に従う。すると脳裏が焼けるような感覚に陥って、目の前が暗くなった。ふらりと、それに従って足元がふらつく。先程までつり革が握られていた手は今は欠伸の為に顔にあるために、自分の体の支えは全くない。

あやばい、と思った頃にはもう遅く。とりあえず周りに心の中でさきに謝罪して、瞳を固く閉じた。ごめんなさい。

『(あれ、)』

だけども、待っていた衝撃いつまでたっても来なくて、むしろなんだか支えられている感覚すらして、私は固く閉じられていた瞳を恐る恐る開いた。

「ばか」

『え?うわ、あ、ごめん!!』

「ばか」

彼は私を片手で支えながら真顔で再びそう言った。その言葉はキツいくせに優しくて、ひどく彼らしかった。

「朝御飯ぐらい食べてきなよ」

『え、あ、』

「顔色悪いよ、貧血と風邪だろ?」

彼の腕から離れようとすると、彼は私がもたれ掛かるように私を引き寄せてそう言った。やれやれ、と言う小言が付いてきそうなその言葉達は、やっぱりひどく優しかった。仕方ないな、とでも言いそうなほどに。

「もたれて良いから寝たら?」

『え、でも、』

「良いから、着いたら起こすよ」

彼はもう何も有無を言わさない口調でそう言った。強引なその口調とは裏腹に彼の腕は温くて、彼の手は優しくて。私は彼の体温に微睡みながら、ゆっくりと瞳を閉じた。


「(…柔らかい)」




おやすみ、おはよう、
ひどく安心していた事と、彼が緊張していた事に気がつくのはまた後の話。





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