book2
□Hello
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「うん、…うん、わかった。じゃあ。おやすみ。」
ピ、と電話を切って温もりが移ったスマホを机に置くと、部屋がひどく静かに感じる。部屋に響く時計の針の音がさらにそれを際立たせた。時刻はちょうど12時を回った所だ。はあ、と息を吐きながら、目頭に触れたぬるいそれをふきとって鼻をすする。どうにか心は落ち着いたらしい。
「パパ、泣いてるの?」
後ろに小さな気配を感じて振りかえれば、そこにいたのは寝たはずの娘だった。子供用のパジャマに身を包んだ姿は幼いが、目許はどうしても彼女を彷彿とさせるものがある。白く膨らんだほっぺが眠そうに赤くて、弱々しい手のひらで目を擦った。どうやら起こしてしまったらしい。
「いたいいたい?」
「大丈夫、違うよ。」
「じゃあどうしたの?」
そうして覗き込んでくる仕草もそっくりだ。どうしたの?と言って瞳を真っ直ぐ見つめられると、どうしようもない気持ちがおさまらない。いつの間にこんなに、こんな風に似てきたのだろう。この姿を見せたいのに、見せたい相手はここにはいない。
「好きな人の事を、想っていたんだよ。」
「すきなひと?」
「そう。好きな人。」
「そのひと、どこにいるの?とおい?」
「そうだね、もうずっと、遠くにいるね。」
そう寂しそうに言えば、愛しい小人はまるで、可哀想、と言いたいかのように眉を下げる。そしてぺちぺちとこちらに歩いてきて隣にちょこんと座った。ああ、ここに天使がいるかのようだ、なんて。そう考えている自分はバカなのだろう。
「どうして、とおくなの?」
「星にね、なったんだよ。」
「おほしさま?」
「そう、キラキラしてるんだ。」
「ちょっと。人を死んだみたいにしないでよ。」
「え。」
「ママ!!」
ドアの方を見ればそこには、仁王立ちをしている彼女の姿があった。どうやら会話の終始を聞いていたらしく、驚いた俺を見て微笑んる。隠れていたなんて趣味が悪いにもほどがあるが。
娘は母親の久しぶりの帰宅に眠さなどどこへやら、彼女のもとへ駆けて脚に抱きついた。彼女もそれを嬉しそうにしゃがんで受けとめる。その姿はもう立派な母親で、時の流れを感じざるを得ない。
「どうして起きてるの?パパに寝かせてもらえなかったの?」
「んーん、パパがないてたのー。」
彼女は、その言葉にわざとらしく、あら、と言ってこちらを向いて微笑んだ。それでもちゃんと母親で、促すように娘の身体を寝室の方へ向けた。
「でももう寝なきゃだめよ、ほら、お布団入って。」
「えー、ママとおはなしぃ…。」
「明日はママお仕事お休みだから。」
「やったー!!」
「はい、おやすみなさい。」
「おやすみなさあい。」
寝室の方へ遠ざかっていくそんな会話を耳にしながら、彼女の大きな荷物を玄関から部屋へと運ぼうと腰をあげる。あとは、えっと、そうだ。疲れているだろう彼女にお気に入りのはちみつ檸檬を入れてあげよう。それから夕食…は食べたのだろうか。冷蔵庫になにか…。
「ね、びっくりした?」
いつの間にやら彼女の荷物を手に冷蔵庫の前をうろついていた俺の背中に回ったらしい彼女が、子供のように微笑む。いたずら成功、とありありと頬にかかれていて、動揺を隠せていない自分に柔らかくため息をついた。
「驚いたよ、そりゃあ。明日の朝帰るって嘘だったんだ。」
「驚かせようと思って。」
えへ、と変わらない笑顔のまま、彼女は、だって早く会いたかったんだもの。と言った。
「そんなの…無理しなくても、って、もしかしてあれも嘘だったの?」
「ん?どれのこと?」
「どれって…、」
わざとらしくとぼける彼女は、ぱたぱたと数ヵ月ぶりのキッチンを見渡して自分のカップを取りだし、ケトルのボタンを押した。その軽快な音と動作にどっと疲れが肩にのしかかる。じゃあ、何だ。俺は。
「俺の涙を返せ…!!」
「あらひどい。誰も嘘だなんて言ってないのに。」
「は?」
「だから、」
いるよ、ここに。
そう言って彼女が微笑む。
華奢とは言えない、俺と同じシルバーリングの光る大人の手を柔らかくその腹部に添えて。
なにも変わらない真っ直ぐな瞳で俺を貫いて。
なにも変わらないままなんて嘘で、隣で走っていたからわからなかっただけだなんて。
「…、ありがとう。本当にありがとう。」
教えてくれたのはこの止まらない涙だ。
Hello
何度も何度もこの言葉を繰り返して。いつか会える君にも伝えたい。
久しぶりの"お話"でした。書きたくなって書きました。後悔はしてません。