book2

□そうして。
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「今私が死んだら悲しい?」

そんなことをふと聞いてみたくなって、聞いたことがある。その時私の猫は、どんな瞳をしていたんだろう。ただひたすら頷いてくれたことはよく覚えているのに、暗がりで見えなかった瞳を今とても見たい。あの綺麗な瞳を、まっすぐで底知れない、私の顔が映る瞳を、慈しみたい。最後に望んだのはそれだった。頭を撫でるとにゃあ、となく君の笑顔がみたい。触って、とねだる甘えたな声が聞きたい。小さな手のひらを感じたい。ただ、●●と伝えたい。

「ごめんね。」

一人にしてしまってごめんね。本当は一人が怖い君を一人にはしたくなかったのに。最後まで愛してあげられなくてごめんね。君の手の中で死ななくてごめんね。ふとした瞬間に私の喉元に手を置いた時の、君の揺れた瞳だって、ずっと見ていたかったのに。一緒に老衰死しようね、なんて微笑みじゃれた時間も。消えはしないのに。

「でも、」

私にとって一番怖いのは、君が私を忘れてしまうことだ。消えない時間が君の中でフェードアウトしてしまうことが、死にゆく今なお怖い。もっと、君の中に私を残してから死ねたら…いや、まずそもそも死にたかったわけでは、ないのだけれど。

「何を言ってるの?まだ足りないんだ?ほら、もう一度あげるよ。」

満月を背負ったその人は、満面の笑みでそう言って光るそれを振り上げた。ぎざぎざして、艶かしい。綺麗だ、なんてこの状況にはひどく不釣り合いだけれど。ただ、痛覚さえなかったら、この景色を網膜に焼き付けて、死ぬとき見た最後の色として残したかった。それぐらい綺麗な、禍々しいほど美しい世界だった。満月と、笑顔と、それからナイフ。月が明るすぎて星はあんまり見えないけれど、夜空の深さはわかる。美しい。そこに帰るのかと思えばまあ、死ぬのも悪くない。ああ、でもなあ。やっぱり痛いや。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛!!!!!!」

朱が腕に走る。これで何度目だろう。切れ味が良いのか切れる瞬間は痛くないのだが、もっと首とか腹とかあるだろうに、肝心なところを切らないせいでなかなか意識が飛ばないのは、多分確信だろう。それから、顔を切らずに腕や脚ばかり狙うのはわざとなのだろうか。顔の神経の多さを考慮したか、それとも私が女であるために遠慮してくれたのだろうか。そんな遠慮をするぐらいならば殺さないでほしかったというのを言いたいが、もう何か言葉を口にするだけの理性もない。考えることで精一杯だ。逃げるなんて事は、相手を見てすぐに諦めた。

痛みが快楽に変わる瞬間なんて、そんなものはただ感覚がなくなっただけで、存在しない。それを自分の肉で感じる日が来るなんて想像もしなかったけれど。…いや、想像はしていたか。誰かに殺されるビジョンを、その感覚を。そうでなければ"死ぬ"なんて事を考えたりはしないか。病死も事故死も老衰死だって想像できなくて、いつだって考えるのは誰かに殺される事だったのだから。

「気持ちいいだろ?ねえ!!」

ははは、と言う笑い声が聞こえる。聞き覚えは、うん。ある。その蔑むような瞳も見たことがある。ただし、こんな風に殺される理由が考えられたとしても、そんな謂れはないのだけれども。

きっと。私を忘れようとしたあのハ虫類は、一生私を忘れないんだろうな。そうして泣くだろう。涙もろいあの人の事だ。笑ながら、きっと泣いているだろう。それでも。

「(それでも、足りない。もっと苦しめばいい。)」

なんて言う今の私の願望は、きっと、まだ何十年も生きていく貴方には、届かないのだろうな。


ああ、死ぬ間際まで汚いのか。

「死んだら、君も、白いだけだ。」
「死んだら、私も、白いだけよ。」

重なる声を感じたのを最後に、私は死んだ。19歳になったばかりの冬だった。




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