book2

□蛇は笑う。
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はあ、と息を吐くと、少し白む。あいつの嫌いな冬がきた。寒いのが嫌いでいつもひっついては照れるように笑う顔をもう見ることはない。別に、もう見たいとも思ってないが。

「(後は白く。か。相変わらず訳わかんねえな。)」

蛇、が自分である自覚はある。怒ったときの目付きが蛇みたい、と泣かれたことだってあった。

「泣いても、なにも思わないのね。」

付き合っているときにそう言ったあいつの顔は、どんなだったか。いつも通り、別れたときと同じように、うっすらと微笑んでいた?もしかしたら泣いていた?あの綺麗な二重の、全てを吸い込みそうな瞳を、長い睫毛を、垂れている眉を、すっと通った鼻を、白く透き通った頬を、どんな風に使って俺を惑わせていたんだっけ。柔らかくて滑らかな手で俺の顔を包み込んで、毛先がくるりと巻かれた茶髪から甘いにおいをさせて、俺に囁いた言葉はもはやもう誰のものでもない。

「(ざまあみろ。)」

あいつは、俺の前に何人もの男を愛していた。言い換えれば、それは、俺を含めどんな奴に憎まれようとも仕方がないということだ。俺はそれに関してあいつを嫌悪している。
まあ、今の俺にとっては容疑をかけられる動機があっても自分一人ではない、と主張できる分都合がいいが、昔の俺はそのことをずっと責め続けた。そうしてフラれたから、きっとあいつは俺のことなど大して好きではなかったのだろう。そうでなかったら、あんなことができるはずがない。

「ほら、また知ったかぶりしてる。なんにもわかってないくせにね。」

死んでもなお、こうやって俺が子供であることを見せつける。あいつだってきっと子供だったのに。誰かに依存して、誰かのものでいないと気がおさまらない、犬のような女なのに。

「蛇は馬鹿ね。」

俺はあいつが嫌いだった。
あいつを見ると不愉快で、気持ちが悪いほどだった。

それなのに、死んでも清々しないのは何故だろう。

「好きの反対は嫌いじゃないのよ。好きと嫌いは紙一重で、反対はね━━━━━。」


もういい。もういいから静かに寝てくれよ。頼むから。

「どうしたの、頭痛い?」

頭が、痛い。

そんな時に気づいて、気づかって、横にいてくれた。膝枕をしたり、頭を撫でたり、俺がどんなに不機嫌でも、逃げないでその体温を教えてくれた。あいつにどんなに暴言を吐こうとも、あいつはただ泣くだけで逃げたりはしなかった。
それはきっと、俺のためだけではなかったのだろう。というのもあいつは、そうして涙を流しながら言葉巧みに俺を丸め込んで、いつも最後に好きと言わせるからだ。弱さを見せつけて、女らしく睫毛を揺らすくせに、本当は強かなのだ。ずる賢い女。だけれどそれがあいつの本性で、決して隠したりはしない。それがあいつの素なのだから。


「すごくさあ、素直な子だったよね。」

ふっと現れた人影で、ざぱりと思考の海からあがる。海の中のあいつは、もう俺から背を向けていた。

「でも素直すぎて、本当の事は理解してもらえない子だったよね。素直すぎて、誤解されやすかった。君にも。きっと君は、今でもあの子を誤解してる。じゃなかったらさっきみたいな、軽蔑の顔は、できないよ。」

「え、」

「はじめまして。蛇。」

「…誰ですか。」

「僕はあの子の傘だよ。」

「それもはや、動物じゃないですよ。」

「うん、でもあの子が言ってた。」

「そうですか。」

話しかけてきたのは、細身の青年だった。細くて柔らかそうな黒髪をさらりと靡かせて、たれ気味の目を細めている。声が高くて、優しい印象を与える人だと思った。俺とは正反対だ。そうして思い当たる人は一人だけだった。切り揃えられた黒髪、細身、優しそうな雰囲気、傘。あいつとの会話を思い出す。忘れる忘れると言って結局思い出すから、自分の意思に意味がないことはもうわかっていた。

「メール、届いたんですか。」

「うん。今朝、届いたよ。」

「そうですか。」

「事後みたい、とは僕は思わないけどね。僕はあの子をあんなに傷つけない。」

「……なにが、」

言いたいんですか。


聞こうとして開いた口は、息を飲んだだけだった。あまりにも、傘と言うには随分、守ってくれる存在だと言うにはきっと、この人は優しくはないと思ってしまったからだ。目の前の瞳の奥に見えるのは、敵意とかそういう生易しいものではなかった。俺を非難しているような口調でありながら、そこに熱を秘めた感情があるわけでもない。言い返してはいけないような空気が漂った。
俺にもあるような、それでも絶対に違う、あいつに対する確固とした闇のような物を見た気分だった。あいつは、もはやその闇の中にいたからこそこの人が傘のようだと感じたのかもしれない。

「あの子から、君の話は聞いているんだ。色々。あの子は、君のこと、子供だから。って。オモチャは本当のキスをできない。って言ったんだ。」

「……。」

「君に、いい加減にした方がいいよって言いたかった。言う前にあの子が死んでしまったから、もう意味はないけど。」

傘は、確かに優しいのだろう。ただそれが傘自身にとって優しさなのかは別だと思った。

「君は、あの子を忘れられないよ。あの子はそういう人だ。」

「なんですかそれ。」

「僕らにとって忘れられるほどの人間じゃないんだよ。人の心に特別として自分を植えつけていくから。生きている間ならまだ逃げることができるけど、死んでしまったらもう逃げられない。あの子の命日が来る度にあの子を思い出して、自分が成長する度にあの子を傷つけた罪悪感に駆られて、それでも決して謝ることもできない。また笑顔が見たいと思っても見られない。やっぱりまだ好きだと思っても伝えられない。死ぬって、多分そういうことだよ。君は所詮昔の恋人で、あの子は、永遠に、昨日まで恋人だった人のものだ。だから君はすごく可哀想だよね。」


傘はそう言って浜辺を歩いていった。だるそうな歩き方が特徴的だった。カーキ色のコートが妙に似合っている。

「あの、」

「なに?」

「どうして別れたんですか。」

「わからない。」

「え?」

「あの子は嘘つきだから、どれが本当の理由かわからないんだ。」

傘は、そう微笑んで、じゃあまた会う機会があったら、と言って浜辺からあがっていった。向こうでは警察が色んな人に話を聞いている。あいつの両親もいるようだった。

「(命日が来る度に思い出す、)」

命日、死んだ日。あいつが息絶えた日。笑わなくなった日。泣かなくなった日。誰にも抱かれることがなくなった日。あいつの心臓が止まり、鼓膜も震えることがなくなった日。抱いた体温が消えた日。もう俺から、誰からも傷つけられることがなくなった日。

寂しいわけではない。恋しくもない。寧ろ鼻で笑っているぐらいのつもりでいた心が、一瞬にして色を変えた。波があがって砂浜に色を残すのとは違う、もっと、消えないほどの強さで、青空が夕空に変わるよりも早く、世界の色が染まる。きっとそれはあいつが、俺の心の底に隠していった色だ。いい加減にしろと言いたい。いったいお前はどれだけ俺の世界に干渉してくるつもりなんだと言いたい。俺にこれだけ嫌われることをしたくせに、こんなにも俺の心を弄るあいつが許せない。俺の心に色濃く影を残していることだって、きっとわかっているのだろう。わかっていて殺されたのだ。だから逃げなかった。

「ははは、」

渇いた笑いは、もはや誰への嘲笑かもわからない。

ただただ、手先が冷たかった。


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