book2

□傘の雨乞い。
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あの日の夜の、あの子の言葉が忘れられない。

笑っているような怯えているような、寂しいような堪えているような、色々な感情を織りこんだ声を受話器越しに聞きながら、僕は、こんな結末を予測していたように思う。こんな終わり方で僕の心の中に居続けるあの子は、今僕の目の前にいる。いつも通りの愛らしい顔で微笑んでいる。

「死んじゃった。」

「うん、見ればわかるよ。」

「私のお葬式に来てくれてありがとうね。」

「そりゃあ来るよ。」

「そうね、傘はいつだって優しい。」

そうして罪悪感みたいなものを手にして、俯きがちに話すあの子の顔はいつにも増して白い。血色がなくて、まるで幽霊みたいだ、と思った。

「みたい、じゃなくて、幽霊なのよ、私。」

「そうだったんだ。」

そう答えれば、ふふ、と微笑む。この声はどうやら僕にしか聞こえないらしい。そしてこうやって話している姿も、きっと僕にしか見えていないのだ。その声にしろ顔にしろ仕草にしろ、あの子のそれはいつだって愛らしい。例え僕のものでなくたって、愛でることはいくらでもできるのだった。愛で、慰め、励まして、それでももう一度手を繋ぐことができなくても、僕はそれでよかった。僕はあの子の中で、傘であり続けたかった。あの子を守る傘。僕が僕のために誰かに優しいことは、それが僕にとって優しさでなくても、誰に感謝されようと誰に恨まれようと関係なかった。

「あ、そういえば、蛇にあったよ。」

「そう、会ったの。蛇だったでしょう。」

「そうだね。彼は蛇だ。」

蛇とは、僕が数日前に話した青年のことだ。

あの子に巻き付いているつもりが、いつの間にか自分で絡まってほどけなくなってしまった、可哀想な蛇。自分の牙に毒があると信じてあの子に噛みついたのに、本当は毒なんて持っていなかった、馬鹿な蛇。僕は彼が嫌いだ。そもそも蛇は、傘にとっては天敵なのだ。穴など開けられたらたまったもんじゃない。

僕は別に、過去に蛇があの子を傷つけ、縛り、苦しめてあの子の心の中に残っている事が嫌なのではない。あの子が僕の手を離した瞬間から、そんな事はどうだってよかった。だって、あの子の心にはすでにたくさんの人がいたのだから。そうしてその心の中に僕がいることは、あの子が僕を傘と呼んだ時点でわかっていた。そうではなく、蛇自身の心の中にあの子が残り続けることが嫌だった。
そして、きっと蛇は気づいているのだ。僕が蛇を嫌いで、それでも忠告じみたことをしたのは他でもない僕のためであることを知っている。

結局、どうしようもない独占欲なのかもしれない。

「まあ、でも、きっと蛇は、私を忘れないんでしょうね。」

「わざとそうしたくせに、よく言うよ。」

「私がそういう人間だって、傘は知ってるでしょう?」

蛇を見ていて思い出すのは、昔の自分だ。僕は、蛇を自分と重ねていた。僕は途中で気がついたからそれほどではなかったけれど。

「もちろん。だって実際、身をもって感じているからね。」

「あら、それって責任とった方がいいのかしら。」

わざとらしい素振りは彼女の得意分野だ。そうやっておどけるから、こちらは折れるしかない。

「そう言って、なにもできないだろ。」

「それもそうね。」

自分の棺の上に座って足をぶらぶらさせながら僕の言葉に笑うあの子の姿は、まるで子供だと思った。そうして翻弄される僕らも僕らだ。全く本当に敵わない。

「それでも私を"あの子"って呼ぶってことは、私がここにいないことを傘はわかっているのよね。」

「え?」

「ここにいないから、"あの子"なんでしょう?そんな風に笑って、本当は幽霊なんていないことを傘は知っているのに。
でもそれって、なにか知りたいことがあるからなのよね?私に聞きたいことがあるからなのよね?」

━━━本当に、敵わない。

今、本当のあの子は棺桶の中で眠っている。たくさんの花に包まれて、大好きなものが散りばめられた箱の中で、たくさんの友人に囲まれている。人懐っこくて好かれやすい性格だったと言いながら、そこにいる人たちは皆涙を流していた。寄り添いあっている女の子達もいた。ハンカチを手放せないでいる大人のヒトたちは、きっとあの子の家族だろう。お別れの挨拶で手紙を読んでいたのは、僕があの子に紹介してもらったことのある女の子だった。自慢の親友なの、可愛いでしょう、とその子の肩を抱いて笑っていた姿も、もう今は虚像にしかなりえない。

「ねえ、誰に殺されたの。」

あの子は答えない。
僕が一番聞きたいのはそれだというのに。

「君が死ななければ、きっと蛇だって君の事を忘れられた。君は恋人と一緒になれた。友人だって、家族だって、悲しまないですんだ。何も、誰も、僕だって苦しむことはなかったのに、どうして殺されたの。誰に殺されたの。君はいつだって皆が笑顔でいることを望んでいたじゃないか。僕は正義の味方じゃないけど、それでも君を殺した人を許せないんだよ。あの、君を独り占めしたみたいな殺し方だって、僕は気に入らないんだ。僕は君のすべてが君のままでいてほしかった。綺麗なままで、そのままでいてほしかったんだよ。」

頬がなんだか冷たいな、と思ったら、涙が流れていた。周りも皆泣いているから目立ちはしないのに、僕は無性に恥ずかしくなって涙をふいた。

「…知ってどうするの?私が生き返るわけじゃないじゃない。」

「それは、そうだけど。」

あの子は僕の方に来て、僕の頭を撫でてくれた。その指先に体温はなくて、ただ思い出す風だけが、僕の黒髪をなぜる。

僕があの子の影を追うたび、その姿が消えていくようだった。
優しいくせに、そこにいてくれない。いつだって追わせるのが得意なのだ。

あの子を殺した犯人を見つけたからと言って、そいつを殺すつもりもなかった。それでも知りたかったのだ。理由なんてものは最初からないに等しかった。あの子に電話をもらったあの夜から、僕は意味のない行為を繰り返している。

━━私ね、死ぬと思う。

いつもと同じ空気で、それでも混沌とした声色でそう言うあの子の言葉に、全身がぞわりと粟立つのを感じた。嘘ではない、と直感でわかった。そしてその直感が正解であったことは今が証明している。

━━安心して、死んだらきちんと教えるから。そうしたらお葬式には来てね。

━━それじゃあ。

ぷつりと電話が切れた直後、無機質な音を聴く前に、すでに僕の体は動いていた。思い当たる場所なんてなかった。それでもただひたすらに走って、走って走って、一晩中走った。その間、何度電話をかけても聞こえてくるのは留守電案内の温度のない声だけで、焦りは全身を駆け巡った。焦って、走って、そうしてきた朝、あの子からメールが届いたのだ。

「Sって、誰のことなんだい?」

届いたメールは2通、一通目は彼女の死体とダリアの写真に、タイトルは"傘へ、後は白く。"そして二通目は、本文に"S killed me."とだけ書かれたものだった。

僕には、彼女の意思を読みとくことはできなかった。後は白くの意味も、Sが誰なのかもわからない。不思議なのはそれだけではなかった。というのも、一通目のメールは携帯から送られているのに、二通目のメールはパソコンから送られているのだ。まあそもそも、あの子の死体が写っているのだから、一通目のメールを送ったのがあの子でなく犯人である可能性は高いが。それでは二通目は?

「そもそも、探偵気分になんてなれるわけないじゃないか。今の僕は、きっと憎しみにまみれているのに。」


あの子が今の僕を見たら、どう思うんだろう。まだ傘と呼んでくれるだろうか。傘は優しいね、と微笑んでくれるだろうか。そう考えたらまた目頭が熱くなった。

あの子の姿はもうどこにもなくなっていた。


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