book2

□魔法使いにキスを3
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月の明るい夜道、一人の女が歩いている。
月明かりが道を照らせど、周りに家はなく、ただ闇が続いているようで、女の顔はどこか怯えていた。
先程まで、周りには家のあのなんとも言えない暖かい灯りがあったはずなのに。
背後からはこつりこつりという、緩やかでしかし圧迫感のある足音が聞こえる。
逃げているうちに迷ってしまったのだろうか。

「ねえ、君、病気なんだって?」

「そんなに逃げることないよ。そもそも逃げることなんてできないんだからさ。走ったって無駄だよ。」

女がちらりと後ろを振り返ると、タバコをくわえた人影が歩いている。その人影はふう、と煙を吐き出すとにこにこと笑った。しかし、闇のせいか見えるのは怪しげに上がる口もとだけである。それがどうにも怖くて、女は足取りを早めた。焦って足を絡ませそうである。
人影の足取りは軽く、走っているわけでもないのに、女はどうしてか追い詰められている気がした。

「なにをそんなに怯えるのさ。怖いことなんてなにもないだろう?」

人影がそうおどけると、女は人影と向き合った。脚ががくがくと震えて、唇が言うことを聞かない。それでも声を出そうと心を握った。人影も、女に一定の距離をとって立ち止まる。そうしてまたタバコを吸って、紫煙を吐き出した。その表情は見えないが、立ち振る舞いには余裕が見られた。シルエットでわかるゆるやかな巻き毛が風になびいている。
一瞬だけ見えた瞳はぎらりと、月明かりで煌めき、じっと女を見つめていた。その奥に秘めた闇を見てしまった気がして、とっさに女は目を逸らした。そして、貫かれて殺されそうな眼光だと思った。

「な、なに、私をどうしたいの、」

「どう?」

女の言葉に、人影は考えた。
タバコを吸い、ふう、とゆるやかにわざとらしく吐き出してタバコを捨てて踏みつけると、人影は女との距離を詰めた。
周りの空気が変わるのが、女にはわかった。
後ずさりしようと足を後ろへ動かそうとして、壁にぶつかった。

嘘、どうして、さっきまで道があったのに。

人影はゆっくりと近づいてくる。その瞳は、暗くて見えなくても、女を見つめていることはわかった。女の心拍が早まっていく。

そうか、魔法使いだ、どうしよう。

女は追い詰められながら、逃げられないと本能でわかりつつも逃げ道を探していた。
女も魔法使いの端くれだからだ。

「はは、逃げようって?君も、魔法使いなんだね。そっかそっか。」

「あ、あ、」

人影の声はひどく綺麗で、空気を切ることができそうなほど澄んでいた。
かつりかつりというヒールの音が響く。人影のスカートがひらりひらりと揺れて、こんな状況にもかかわらず綺麗だと女は思った。

人影との距離が、一メートルを切った。そうして初めて近くで見た人影の顔は、あまりにも綺麗だった。肌は白く、瞳はぱっちりと、鼻筋が通っていて、口もとにほくろがある。その唇は、薄くて、ピンクのグロスが月明かりに照らされて輝いている。しかし、笑ってはいなかった。あまりにも綺麗で、あまりにも冷たい。女はそう感じた。瞳の奥の闇が、人影の持つ空気が、女を捕まえて離さない。

「そうしたら、君の魔力をもらうよ。ね。」

そうして女が反論する暇もなく人影は女にキスをした。
いや、唇に唇で触れた、という方が正しいのかもしれない。
その時女は、心の底から魔力を吸い取られるのを感じた。だんだん力が抜けていって、抜け殻になっていく感覚。疲れた日にベッドに横たわった時にも似た感覚。気持ちがいいような感覚。
その感覚に流されそうになって、女は危機感を感じて人影の肩を掴もうとした。
しかし、その肩は掴めずに空を切った。

「!?」

目の前の人影がキスをしながらニヤリと笑うのが見える。その表情が艶めかしくて、女の心にぞくりという恐怖が走った。

嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖い嫌だ怖い嫌だ怖い助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!

恐怖だけが女の心を支配していくと、それに反して人影は嬉しそうに笑った。
しかし、女の頬を涙が流れると、す、と、人影は笑みを消して唇を離した。
先ほどの冷たさが顔に戻る。
女は立っていられずに壁にもたれようとして、後ろに倒れた。壁がなくなっている。
どうやらやはり人影の魔法で作られたものだったようだ。
女は涙を拭く気力も痛みに叫ぶ気力もなく、ただ息を荒くしている。暗闇に響く吐息がひどく現実的だった。心臓の動きが激しくて顔が熱くなっていくのを、冷たい風が撫でた。涙で髪の毛が顔にへばりついて気持ちが悪い。いや、それだけじゃない。体がだるくて、動けない。視界がだんだんとぼやけていく。でも、死にそうな感覚とは違うことは理解できた。人影が簡単に死なせてくれないことも。

「ふ、今日はこれくらいにしとくね。死んじゃったら困るもんね。まあ、死なないけどね。」

人影の言葉に、力を振り絞って顔を上げると、月明かりによる逆光でもう人影の顔は見えなかった。

「じゃあね。」

そう言うと、一瞬にして人影は消えた。もはや驚きもしない。あの人影は魔法使いだ。間違いない。
そして、また人影と会うであろうことも、女はわかった。

恐怖と絶望で闇の底に突き落とされたような感覚で何も考えられなくなって、女は思考を停止した。体が重い。ここがどこかももはやわからない。

もはや立ち上がる力も残っていなくて、女は意識を手放した。

魔法使いにキスを3


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