book2

□郷愁
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「(海へ帰りたい。)」

水族館で君と、水槽の中で泳ぐ彼らを見ながら、私はそう思った。心の中の言葉と一緒に流れたのは、自分でもよくわからない郷愁に似た感情による涙だった。

「あの尾びれがほしい。」

いるかの泳ぐ姿は自由で、でもどこか窮屈そうだ。それはきっと彼らが水槽の中で生活しているからだろう。

そもそも彼らは、海を知っているのだろうか。

あんな風に泳ぐことができるのは羨ましいけれど、海をしらないという所で、私は彼らよりも勝っているような気がした。競い合う必要などどこにもないはずなのに。

「(ねえ、君らは。)」

水槽に手を当て、泳ぐことに必死な彼らをじっと見つめる。そうやって心の中で話しかけたって、伝わるわけがないのに。
でも、私はずっとずっと昔、彼らの仲間だった気がするのだ。だから、目で伝わる気がした。

「(空に憧れることがあるの。)」

ずっとずっと、透明で暗くて深い海から、手を伸ばしてもジャンプしても届かない空を恋焦がれることが。
水越しではわからなかった空を始めてその目に入れたとき、どう思ったの。

届かないだとか、遠いだとか、そんなことよりもまず、その清々しさや蒼の爽やかさに心を撃たれたりしたの。そうして初恋のようなあの胸が焦がれるような感情に心を揺さぶられたの。

海の藍とは違う、それは、色を変える。すっきりとした蒼や、にじむ赤や、夜の、闇色。
その変化に心を躍らされて、時には涙が流れたりして、でもその時に思う。

自分は海にいたのだと。

海にいたから、空に憧れるのだと。

「(空に感じるのは憧れ。)」

「(海に感じるのはそれと違う。私はずっとそこにいたのだという確信に似たような郷愁だ。)」

「尾びれがほしいって、それじゃあ人魚にでもなるの。」

「ふふ、違うよ。」

海に帰りたいという気持ちはあっても、それでも今陸にいてよかったと思うのは、隣にいとおしい人がいるからだ。

それは多分、自殺志願者が生きる希望を与えられた感覚。

少し前の、海に帰りたいと自ら海を作ろうとしていた自分を思い出す。

「(ありがとう。)」

口には出さずに、何度も隣にいる君に伝えていることを、君は知らないだろう。

私がどれだけ感謝しているかなんて、きっと知る必要なんてない。
そんな話をしていたら、夜が明けてしまう。

海を作らずとも、今は、君が涙を受け止めてくれるから、私は海に帰る必要がなくなってしまった。
同胞だった彼らに、笑顔で手を振ることができる。

もう、水の中で自らの首を絞め、抗うことなく藻屑となる自分の姿を想像する夜は明けたのだ。

だから今は、君と一緒に朝焼けの美しさに見とれながら、幸せだねと寄り添いあっていたい。

「(またね。)」

水槽の中のいるかは、少しだけ笑っているように見えた。


郷愁

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