book2

□虚しく、愚かしく
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彼女の手が汚れていくのを、僕は黙って見ていることしかできなかった。

「どんなに洗っても落ちない汚れを隠すために、いっそもっと汚してしまいたいの。」

煙草の匂いが微かに残る彼女の掌を、初めの頃僕はきちんと握っていてあげないとと思っていた。
決して華奢ではないが確かに女の骨格をしたそれは、幸せを掴もうとしているはずなのに、その先にあるのは不幸ばかりだった。

優しくて面白いのに、放っておくと不幸ばかり掴んでしまう。
そんな彼女を幸せにしたかった。

「したかった、つまり過去形よね。昔の発言を過去形にすることで、嘘をついた罪悪感から逃れようとしているのかしら。」

滑稽よね。彼女はそう言いながら頬を撫ぜる髪を耳にかけた。
変わらないシャンプーの匂いは清潔で、まるで汚れたものを嫌うようだった。
彼女自身から吐き出されるそれらさえも。

僕は何も言わない。ただ便器に向かって一度咀嚼し飲み込んだものを吐き出す彼女の嗚咽と、その嗚咽の合間に溢れる悲鳴を聞きながら、せめて彼女の背中を撫でるだけだ。それくらいの優しさしか持っていない。

「昔の君だって、優しかったわけではないのよ。きっと。自己愛とタイミングの掛け合わせ。私を幸せにしたいだなんて、そんなのも戯言だった。そんな安っぽい作り物の愛情に踊らされた私も私だけれどもね。本当、滑稽だわ。」

誰だって自分が一番だ。言い換えれば、自分以外は二の次。もし自分と他の人が同時に溺れていたら、何より先に自分が助かる方法を見つけるのだろう。

「別に自分が一番だろうが関係ないの。それはどうだっていいことなのよ。でもね、あなたはきっと、人に優しくされてもそれが当たり前なの。あなたは今までどれだけ人に優しくされたかなんて、考えたこともない。些細なことでさえ、相手だって自分が大切なのは変わりないのに。そうやって人の物を簡単に奪い去ることができる。愛情も、信頼も何もかも全て。」

それでも私はね、あなたが幸せになることを願うわ。
彼女の表情は見たことがないほど冷たかった。
雨が降っているのに傘をささない彼女の鼻筋を、雨粒が伝っていく。
土と雨が混じり合った匂いに本来嗅ぎ慣れない匂いが充満しているにも関わらず、彼女はただ足下を見つめていた。目を逸らさず、ただじっと、その現実を見つめながら怯える事も昂ぶる事もないまましばらくそこに立っていた。

「だからね、あなたが誰かに不幸にされたとしたら、私はその人を●すことができる。それを望まないなら、まあ、命までは取らないわよ。でもあなたが何も言わないのなら、私は私のしたいようにする。だって私にとっての一番の不幸って、私にとって近しい人の不幸なんだもの。」

煙草の匂いでもない、胃酸の匂いでもない。鉄分の多いツンとした匂いは、きっと洗えば取れるだろう。それでも彼女の手の汚れは落ちない。
もしも僕が彼女の手を守り続けていたら、こんな事にはならなかったのだろうか。そんな事も考えた。僕が愚かしいがために彼女の手を突き放してしまったことが、彼女をそれまで以上に汚してしまったのだろうか。

でも僕は、そんな責任は負いたくない。だから今日も目を逸らし続けるのだろう。彼女のように真っ直ぐに見つめる事など到底できはしない。



虚しく、愚かしく。


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