掌編小説置き場。
□さつじんき。
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電気という文明の利器があっても、人間にとって夜は暗闇のままらしい。
人々が深い眠りにつく丑三つ時。不気味な満月が照らす夜道。
ここロンドンも例外なく濃密な闇が世界を支配していた。
空気を舐めまわすように、風が、失われたはずの夏の湿気を運ぶ。
その風に顔をしかめた女性が独り、路地を歩いていた。
集会とは名ばかりのパーティーの帰り道。
裕福な生まれなのだろう。真紅のドレスを身にまとい、派手な化粧をし、美しいその姿を月に晒す。
だが、すぐに表情を変えた。その顔は少しばかり歪んでいる。
表すならば、恐怖≠ゥ。
夜が支配する場で怯えるのは、何も珍しい訳ではない。
――早く帰ろう。
そう思い、焦ったように歩みを速める。
瞬間。
身の毛もよだつ、壮絶な何か≠感じた。
誰かに観られている気がする。
恐怖からか、身体はすっかり言うことを聞かなくなっており、足はカタカタと笑い始めてしまう。
きっかり十秒。
女性は意を決し、首だけで後ろを振り向く。
――目に映るのは銀の満月。それ以外は何も。
安堵の息がでる。すっかり寒くなった夜の空気が、それを白く染めた。
そして再び前を、自分の進むべき道を見据え
……人だ。
妖艶な満月を背にし、路地に長いシルエットを作り落とし。
どこか愉しそうに歪んだ口元に、燃え盛るような紅い爛々とした瞳。
あれは。
あれは、巷で噂の殺人鬼≠ナはないだろうか。
殺人鬼≠ェ、一歩踏み出す。
身が竦んで動けない女性は、ただただ見ていることしかできずにいる。
もう一歩。さらにもう一歩。
「待って」
女性が絞り出したのは、そんな一言。
殺人鬼は動ぜず近づいてくる。
「ちょっと待って」
止まらない。
「だから待ってってば」
さすがに不思議に思ったのか、殺人鬼が足を止める。
「なんであなたの後ろに月があるの?」
くるっと振り返る。
確かにそこには満月が。
正面を見ても、満月が。
「……あれ?」
殺人鬼が素っ頓狂な声を上げ、疑問をあらわに。
「なんで?」
「だってこういう場面には、犯人側に月があるものかと」
「なにその古い考え方」
「ベタでいいじゃないですか」
「駄目よ駄目。月はあたしが使うんだから」
「えー……」
「だだこねないの。主人公はあたしなんだから」
「どっちかって言ったら、私の方じゃ」
「あぁん?」
「なんでも無いです」
「じゃあ、テイク2いこっか」
「え」
――テイク2
そして再び前を、自分の進むべき道を見据え
……人だ。多分。
どこか愉しそうに歪んだ口元に、燃え盛るような紅い爛々とした瞳。よく見えないが。
あれは。
あれは、巷で噂の殺人鬼≠ナはないだろうか。見えないのでわからないが。
「ちょっと待って!」
「なによ」
「私の正体が全然わからないじゃないですか!」
「細かいことはきにしないの」
「細かくないでしょ」
「なにか?」
「ですから、『――目に映るのは銀の満月。それ以外は何も。』を『――目に映るのは何もない。』にすれば全て丸く収まります」
「なるほど」
「どうします?」
「テイク3で」
「ですよねー……」
――テイク3
そして再び前を、自分の進むべき道を見据え
……人だ。
妖艶な満月を背にし、路地に長いシルエットを作り落とし。
どこか愉しそうに歪んだ口元に、燃え盛るような紅い爛々とした瞳。
そして、瞳と同じく服装も紅い。否、あれは本当に燃えている!
「はい!」
「はい、殺人鬼くん」
「服に火がついてめちゃめちゃ熱いんですが」
「それだけ?」
「なんで燃えてるんですか」
「煙草の火が移ったんでしょ」
「なんにしたって駄目ですよ」
「わかりやすくていいじゃない」
「もう月があるでしょ!」
「あ、そういやそうね」
「そろそろ終わりにしたいんですが」
「テイク4!」
「……」
――テイク4
その風に顔をしかめた女性が独り、路地を歩いていた。
集会とは名ばかりのパーティーの帰り道。
裕福な生まれなのだろう。真紅のドレスを身にまとい、派手な化粧をし、美しいその姿を月に晒す。
夜道に映える白い生足がチラチラと覗き、折れるほど細いウエストと、ふくよかな胸を大胆に象る、言わばチャイナドレ
「ストップ!」
「最高のタイミングね。なに?」
「なんで着替えてんですか」
「あれ重いんだもん」
「だからって……」
「駄目?」
「……テイク5」
――テイク5
その風に顔をしかめた女性が独り、路地を歩いていた。
集会とは名ばかりのパーティーの帰り道。
裕福な生まれなのだろう。何も身にまとわず、派手な化粧をし、美しいその姿を月に晒す。
「ダメダメダメー!! ストップ!」
「あによ」
「あによじゃないですよ! なんで全裸なんですか!」
「暑くて」
「もうやだ……なにこの人」
――後日。
その路地で裸の女性の遺体が見つかった。
腹部を刺されていることから、殺人鬼の仕業ではないかと囁かれている。
また、警察は、女性が殺されたと思われる時刻にいた人物を公然猥褻の罪で逮捕した。
彼は『殺人鬼ジャックはもういない』と語っており、それ以来、殺人鬼の出没はない。