小説(3冊目)

□ある日の始まり
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 少し肌寒い平日の朝、僕は渋谷の自転車の荷台に乗せてもらい最寄駅まで向かっていた。
 見慣れた筈の町の景色がいつもの倍以上の速さで流れていく。
 自転車のペダルを力強く漕ぎながら、渋谷が空を見上げて呟いた。
「あー絶好の野球日和だなぁ」
「ゲートボール日和だろ渋谷。僕達はこれから学校」
 僕は自転車から振り落とされないように、腕を渋谷の腰に巻きつけたまま訂正する。
「う、うるせーな村田。良い天気だって事に変わりないだろ」
「まぁね」
 雲の間から覗く空は青く澄み渡り、差し掛かった公園ではご老人達がゲートボールの準備に勤しんでいた。
 冷たい風が頬を撫でていくけれど、布越しに伝わってくる渋谷の体温はとても温かい。 
「野球は出来なくてもさ、その荷物からして今日は体育あるんじゃないの?」
 自転車の前カゴには僕達の鞄の他にスポーツバッグが入っていた。
「……体育館でバスケなんだよ!」
「なるほどね」
 言葉に詰まった後ヤケクソのように喚く。それは風に遮られがちな僕の耳にちゃんと届くようにと気遣っての事だろう。
 でも僕には青空が大好きな、筋金入りの野球小僧の嘆きに聞こえた。
 後ろにいる僕に渋谷顔は見えないけれど、顰めっ面をしてるだろうって事が容易に想像出来て思わず苦笑した。
「あ、ここで良いよ」
「おう」
 最寄駅の近くに辿り着いて自転車を停めてもらう。キィッと軽快なブレーキ音を立てて自転車が停まり、僕は地面に足を付けた。
 いつもより早めに着いた駅前に、人は今誰もいない。
「じゃあね、渋谷」
 前カゴから自分の鞄を取りながら渋谷に顔を近づける。片手で温かい頬を包みそっと唇を重ねた。
 柔らかく触れてすぐに離す。
 1歩下がって距離を取ると、渋谷は目を大きく見開いたままたちまち頬を赤く染めた。
 手の平で口を覆い隠す仕草が可愛くてしょうがない。
「なっ、村田こんな所で……!」
「行ってらっしゃいのキスだよ」
「どっちかっつーと行ってきますじゃねーの?」
「あ、そうかもねー」
「ってそうじゃなくて、誰かに見られたらどうすんだよ!」
「僕がそんなヘマすると思う? キッチリ確認済みさ★」
「……★はやめろ」
 僕がおどけてウィンクを返すと、これでもかって程の渋面を作ってみせた。
 コロコロ変わる表情に僕の顔は緩みっ放しだ。
 手をヒラヒラと振って駅に向けて歩き始めると、渋谷は融ける笑みを浮かべて手を振り返してくれた。
 何か新婚さんみたい。
 そのまま伝えるとまた呆れられそうだから、密かに幸せを噛み締めて僕は背を向けた。

 今日は良い日になりそうだ。



end
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