お題
□1.お隣さんへご挨拶
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今日から新しい街。
新しいマンション。
新しい苗字。
これから始まる新しい生活に胸をドキドキさせながら、俺・菊丸…じゃなかった。大石英二は、今日移してきたばかりの荷物を解いていた。
大石も俺も休みが今日しかないから、解けるだけ解いてしまおうってことで。
朝から始まった引っ越しは、引っ越し業者が大型家具を運び入れてくれたおかげで、さほど苦もなく片付けは進む。
夕方を回るころには、明日の朝食くらいは台所が使えるまで片付いた。
「おーいし、そっちどう?」
居間と台所の片づけが一段落したところで、自分の部屋を整理していた大石に声をかける。
これから二人でお隣さんに挨拶しに行くのだ。
「いつでも行けるよ」
部屋の奥からそう返される。
俺は引っ越しの挨拶用に買った乾燥そばを部屋分だけ持って、玄関で大石を待った。
本当なら引っ越ししてきてすぐに行くもんなんだろうけど、どの部屋も留守だったから、夕方のこの時間にしたんだ。
両隣と上下の部屋。
いったいどんな人たちが住んでるのか、ワクワクしつつも、俺たちは同性カップルだからどんな目で見られるのかと思うとちょっと怖くもある。
「おまたせ」
洗面所で手を洗ってから、大石が玄関にやってくる。
「大石、ここホコリついてる」
髪に絡んでた綿埃を指でつまんで取ってやると、大石は俺の頭をこつんと軽く小突く。
「今日から英二も大石だろ?いつまでそう呼ぶんだよ」
「ぅ…だって、呼びなれちゃってんだもん」
「まぁ、英二の声でそう呼ばれるのは好きだからいいけど」
大石の掌が俺の頭を撫でる。
「秀一郎って呼ばれたい?」
リクエストに応えて下の名前を言ってみた。
せっかく言ってやったのに、大石は眉根を寄せて変な顔してる。
「…大石でいいよ」
「なんでー?」
「なんか今、自分の名前だけど、英二が他の男の名前呼んでるみたいで嫌だった」
拗ねたような顔をして、本当に嫌そうに言った。
「変なのー」
自分から名前で呼べ、みたいなこと言ったくせに。
しかも自分にヤキモチ妬くなんて。
俺はお腹を抱えて笑った。
大石も、それにつられるように笑う。
これからもずっと、こんな風に一緒に笑い合うんだ。
そう思うと、胸んとこがほわっとあったかくなった。
「少しずつでい?名前」
笑いが落ち着いてから、改めてそう提案する。
「無理しなくていいよ。俺も英二の声で聞きなれちゃってるから平気だし」
「でもさ、下の名前呼ぶのって特別っぽいから呼びたい」
「じゃあ、俺がヤキモチ妬かない程度に、少しずつにしよう」
大石の言葉にまた吹き出して、笑いながら頷いた。
「行こっか」
残りの片付けのことを考えて、もうそろそろ行かないと、とドアノブに手をかける。
「あ、英二、待って」
「にゃに?」
ドアを開けようとした手を止められて大石のほうを向くと、グッと引き寄せられてチュッとやわらかい唇が触れた。
不意打ちのキスに、俺は顔を真っ赤にして後退った。
キスされた唇も晒したままなのが恥ずかしくって、手で隠した。
初めてでもないのに、これよりもっとすごいキスもすごいこともやってるのに、大石からのキスはいつでも照れくさくて恥ずかしい。
それに、大石がいきなりこんな風にすると思ってなかったからびっくりした。
「今日、初めてだよ」
悪びれもせず、俺の反応が可笑しかったのか、目を細めて大石が笑う。
「そ、そだね」
今日はお互いの家から荷物を運んだから、ずっと誰かしらいて、こうやって二人になることがなかった。
「続きは、後でね。行こうか」
「うん」
続きってなんだよとは聞かないで、まだ冷めない頬を押さえながら俺は大石と玄関を出た。
新しい生活を始めるために。
まずはご挨拶へ行かないと、ね。
【END】