short story

□パンの香り
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〈 パンの香り 〉



世の中には、簡単に言葉に表せない感情がある。

表せないから分からなくて、どう伝えたらいいのかが困ってしまう。

それは時に苦しくて、時に辛い。

でもその感情というのは、楽しい。

その感情を持てば持つほど、胸が熱くなる。

それが楽しくて、面白くて、切ない。




恋というのは、大体そういうものなのだろう。





「…あ、おはようございます。」



『AOMIYA』の看板を掲げた店が、家のアパートの隣に二年前に出来た。



「今日は早いですね。何かトラブルでもありましたか?」



中に入ると、明け方の少し肌寒い気温をも包み込むような、優しい声が聞こえた。



「はい。少し後輩がやらかしまして。」



焼きあがったパンの天板を持つその少し白い綺麗な腕は、正反対に力強いものだった。



「じゃあ、今日はサービスしますよ。後輩さんにも差し上げてください。」



そう言ったかと思うと、自分が持っていたトレーの上にバターロールが二つ置かれた。



「すいません。ありがとうございます。」



僕が言うと、彼女はいつもの笑顔で笑った。



「いいえ。桜木さんにはいつもお世話になっていますから。」



その笑顔に見惚れてしまうのも、いつものことだ。



「ここのパンが大好きなんですよ。」



ついでにここの人も好きなのである。



「そう言ってもらえると、働き甲斐があります。」



結った髪に上から三角巾を付ける。



「そういえば、ご主人はどうされたんですか?」



毎朝欠伸をしながら生地を作っている店長の姿が見当たらない。



「あ、あの人はまだ寝てますよ。昨日熱を出してしまって。

だから今日は私だけでやっているんです。」




あの店長が風邪か。




「そうなんですか。お大事になさってください。」

「大丈夫ですよ。バカでアホですからすぐ治ります。」




ふふっと微笑んだ姿も、可愛らしい。


そんな心の片隅で、

小さい切なさは押し殺した。







『青宮』というのは、ご主人の苗字。



「あの人が、俺の夢はパン屋だ!って言い出したんですよ。」



いつの日か、そんなことを青宮さんが言っていた。

すごく幸せそうな顔で。


そんなこんなで、『AOMIYA』が出来たらしい。


青宮さんが結婚していたという事実を知った時は、凄くショックだった。

だが、凄く優しくて温かいご主人と、いつも微笑んでいる青宮さんを見ていると、切なさもだんだんと薄れて行った。


『桜木さん』と呼ぶ、仲睦まじい夫婦の優しい声は、聞くとなんだかすごく安心する。


今はただ、ここのパン屋が好きで、この人たちが大好きなのである。






「そうだ。これ、試作品なんですけど。」



彼女が差しだしてきたのは、貝殻のような形をした甘くておいしそうな匂いのする、てのひらサイズの菓子パン。



「マドレーヌですか?」

「そうです。」



それは外見からわかるように、ごく普通のマドレーヌであった。



「ちょっと食べてみてください。」



あまりに楽しそうな顔をして言うので、不思議に思いながらも食べてみた。



「・・・!」



ほのかに、柑橘系の味がした。

砂糖の甘さと柑橘の酸味がハマっていて、すごくおいしかった。



「生地に少し、レモンの皮をみじん切りにしたものを混ぜたんです。どうでしょう?」

「すっごくおいしいです!」



あまりのおいしさに、声が少々大きくなってしまった。



「本当ですか!よかったー。桜木さんがおいしいと言ってくださると安心ですよ。」



彼女はほっと胸をなでおろした。

つくづく、綺麗な人だと思った。



「明日から、新商品として出しますね。」



おいしいと言われたのがよほどうれしかったらしく、彼女はにこやかにそう言った。



「楽しみにしていますね。」

「私が開発したもんですから、あの人が喜ぶかは分かりませんけど。」



店長はパンが好きでパン屋をやり始めたらしい。



「きっと好きですよ。」



僕がそう言うと、彼女は少し不思議そうな顔をした。

そんな彼女を見て言葉を継いだ。



「だって、自分の愛する妻が一生懸命に考えてくれたんですから。」



彼女は、少し照れくさそうに微笑んだ。



「そんなこと、あの人は思いませんよ。」



その笑顔は確かに、店長を愛している顔であった。

それはすごく、幸せそうな顔だった。






ずっとずっと、その笑顔を見ていたい。



そんな事を思った。



 


End

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