頂戴品

□香檻
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月下香の花の甘い芳香が辺りを泳げば、空の鮮やかな橙を静かに畳みだす。

夕とも夜ともつかないその空を、空と大地の緑をかろうじて漂う陽を見ながら城下を歩く。主君が不在の時の、ウェラー卿コンラートの責務であり習慣だった。
ただ城下警備であるなら、もっと人員が必要であり、時間ももう少し遅い方がその役割を果たすだろう。
辺境の砦ならともかく、こんな国の中心部でウェラー卿の腕を必要とする程の事態など、そうそう起こらない。

つまりはコンラートがする仕事でもないということなのだが、変に律儀なところがある彼は毎日決まった時間に必ず城下を歩く。半分、散歩のようなものだった。
賑やかな声、子供の足駈ける音。家から立ち上がる夕食の匂いと、弾けるように笑いあう家族の団欒。
それらすべてが、コンラートを穏やかな心地にさせる。
多少地味だが男前、と言われる相貌に、自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
嘘ではないが、心からでもない笑顔が得意な男にしては珍しい。

ふと、人通りが寂しくなる。コンラートが少し裏通りに入ったからだ。その通りは酒場が多く、酒が誘う陽気な声が聞こえてくるには多少時間が早かった。
代わりに通りを我が物顔でたゆたうのは、月下香の香りだ。香油として使われる程の強く甘い香りは、夕方を待って放たれる。
昼間には似合わない官能的な香りを、その花自身、わきまえているようでもあった。
そんな香りを纏わせながら歩いていると、せっかくの艶やかな衣裳が着乱れていることにも頓着しない様子で、必死に走る人影が見えた。
こちらに向かってきている。コンラートは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、そのあまりに自己主張の激しい上腕二頭筋を見た瞬間に、どんな女性かという疑問を即座に投げ捨てた。


走り込んでくる蒼の瞳がコンラートの姿を視界に収めると、その必死さにそぐわない脳天気な声が放り投げられる。
「あぁんたぁいちょ――ぅっ、たすけてえ――ん」
その声を聞いたコンラートが速やかに他人の振りをしようと思ったことは、末代までの秘密だ。長年幼馴染みとして付き合っているからこそ働く勘と脳天気な口調が、かえってずいぶんな面倒事だと教えてくれていた。

「何にお困りかな、お嬢さん!」

コンラートは半ば呆れ気味に、猛進してくる幼馴染みに向かって声を投げ返した。
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