劣等感

□病巣
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 彼の恋人は、その感性の豊かな所為で彼を窮屈にさせた。例えば、息を吸う事でそれを罪と考えたり、食事をする事が自我であると考えたり、その他にも尋常でない程に感性を豊かに所有していた。
 従いて、やがて彼は自身の全てを罪と感ずる様になる。そうして、思い出す陰惨な過去。妹に悪戯をした事、父母の性交を見て射精した事、妹を死なせてしまった事等全てが罪であったと感ずる様になる。
 彼は犯罪者が抱く様な罪悪感に苛まれた。生きにくくなった。苦しくて堪らなかった。彼は何時しか考える。その恋人と交際して行く事が、自身を死へ追いやる事であると。
 彼は恋人と別れる事を決意した。しかしそれは口に出せなかった。二人の間には、沢山の素敵な想い出があった。それを思うと彼は別離を口にする事が出来ない。けれども、別れなければならぬ。最早犯罪者である自分と付き合って行くのは彼女が可哀相であると考えたからである。また、それよりも自身の可愛さの為、つまり犯罪者意識に悩まされぬ為と考えたからである。
 彼は答えを出した。自身の口から言われないのであれば、相手から別離を言わせれば良い。そうすれば、「さようなら。」と言われたのであるから、幾ら縋りても無駄、そのまま別れる事が、自然なるものとして成立す。
 彼は試みた。仕事をせずに酒を飲む。酩酊し、浮気をする。それを繰り返す者は嫌われる。せめてもの頽廃。蟻の如き小さな頽廃。しかし彼の中では完璧たる計画であった。
 が、これは失敗に終わる。恋人はそれでも、傷付きながら彼を受け入れたのである。
 彼は頭を悩ませた。
 どうすれば良いのか。どうすれば、彼女と別れる事が出来るのか。
 程無くして彼の心中に或る閃きが生ずる。
 人を殺せば良い!
 彼はこれを思った時、苦笑した。何故ならそれを実行する事が不可能であると踏んだからである。しかし彼は、妹を死に追いやったのは自身だとこの時に思い出す。そうして、その行為が殺人と何等変わりないという事を見出だした。
 彼は沢山の人脈を使い、拳銃を手に入れる。これは中々時間の必要とするものであった。拳銃を売る者も買う者も、検挙せられぬ様、その証拠を残す事が出来ないからである。彼等は綿密なる計画を立て、遂にその売買に成功した。
 拳銃を手にした彼はわなわな震えた。嗚呼、この撃鉄を起こし引き金を引くだけで、人の命が無くなるのか。それまで生きていたものが、遂に抜け殻と化してしまうのか。嗚呼、妹の様に。
 彼はそれから何度も夢を見た。毎夜毎夜、恋人の頭を撃ち抜く夢である。彼女の脳は飛び散り、その後ろに存在するともなく存在している壁に、彼女の鮮血が一つの絵画を描き出した。それは芸術であり、美しかった。
 毎夜魘された。けれども、その夢の中の彼は引き金を引く事に、…いや、彼女を殺す事に快感を見出だしていた。
 彼は悩まされる。やはり自分は所詮人殺し。最早止まらない。
 彼は鞄に拳銃をしまい、恋人の家へ行く。内心、嗚呼、それでも内心、彼女を殺す事等出来る訳が無いと思いながら。


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