劣等感

□病巣
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 とは言え、可笑しな事になった。
 当初、彼は誰かを殺して、その為に恋人が去って行くのを願ったが、それがどうしたものか、彼の殺す対象が恋人になっている。けれども、物凄まじい剣幕にて拳銃を突き付けられては、其処に愛もへったくれも在りはしまい。破局だ。そうして、破滅である。
 一歩一歩、彼は恋人の家へ向かう。それは何かの映画で観た、殺し屋が対象を殺しに行く場面と酷似していた。彼はその時、その殺し屋の心情をちらと垣間見た気がした。
 恋人はその家の戸を叩く彼を喜んで招き入れた。しかし決して彼を招き入れた訳ではなかった。彼女自身の死を招き入れたのである。
 彼は唐突に、彼女の頭に拳銃を突き付けた。最早、一緒に珈琲の一杯でも飲む事等無意味に感じていた。唐突で良い。殺すだけだ。そうして、後に待つのは真っ白なる空白。
 彼女は辟易した。そうして、その拳銃を偽物だと思う。実はそれが水鉄砲であり、驚かせようとしているだけに違いないと思う。
 彼は天井を目掛けて先ず一発だけ撃った。渇いた銃声が室内を満たし、後には硝煙が立ち込める。
 彼女はその拳銃が本物である事を知る。そうして、彼の表情が犯罪者のそれである事を理解する。それでも用心して、
「どうしたの?」
 彼は故意に奇妙なる微笑を湛え、
「お前を殺すのさ。さようなら。」
 彼はその時、涙を流していた。それはやはり彼女を愛していたからであり、別離の訪れるのを悔恨したからである。例えば手に硬く握られた拳銃を乱射して、そうする事に因りてその別離自体が死んでくれないかと彼は思う。しかしそれは可能だとしても自身の罪悪は消えぬ。彼は撃鉄を起こす。
 彼女が言う。
「良いわよ、撃っても。貴方に殺されるのなら、私は喜んで死にましょう。」
 別離は訪れない。斯様な、綺麗なる愛。嗚呼、撃てぬ。撃てる訳が無い。どう考えても、やはり撃てぬ。
「私を殺して、幸せになってね。」
 違う。彼女なくしては幸せ等有り得ない。例えば雑草を見ても、其処に何の感動も見出だせない。何も無くなるだけだ。彼が犯罪者でさえなくなるだけである。そう、例えば他の女を抱こう。しかし其処に愛の安らぎは感ぜられない。決して感ぜられないであろう。「ごめんね。冗談だよ。」とそう言いたい。まだ間に合う。今ならまだ。
 けれども、彼はそう歩き出そうとしても、例の陰惨たる過去がやはり彼を嘲笑うかの如くその心を過ぎる。彼の中の彼が言う。「ふざけるな、犯罪者め。今更歩き出すだと? そうは問屋が卸さない。お前は病んだ人間だ。救われぬ人間だ。人を愛する資格も生きる資格も死ぬる資格さえありはしない。お前にお似合いなのは、ほら、目を閉じてご覧、その奥に見えるだろう、あの、黒色の闇だけだ。同時に真っ白なる空白。黒色という白色。それだけだ。」
 嗚呼、彼は生きた事が間違いであったのか。はたまた産まれた事が間違いであったのか。死のう。その拳銃で、自らの頭を撃ち抜くしかない。彼女から拳銃を遠ざけよ。そうして、自身のこめかみにその先を当てよ!
 しかし彼にはもう死ぬる気力さえ残っていない。生きる気力も、無論ある訳が無かった。
「良いのよ。苦しいのなら、私を殺しても。」
 彼女はまだその言葉を放つ。その表情は真摯で、決して生半可たる意志でない。
 彼の引き金を引く為の指は震えている。
「さあ、早く撃って。」
 彼女の目からも涙が流れた。それがとても美しく、悲しかった。
「撃って。早く!」
 彼女が居なくなった時、彼はどうするであろう。どうなるであろう。生きるともなく生きるのか、或いは死ぬるともなく死ぬるのか。嗚呼、出来る事であれば彼女と笑い合っていたい。しかしそれは彼自身が傷付く為に選ばれぬ。
 この、根性無し! 愚か者!
 が、彼は幼過ぎた。余りにも、幼過ぎた。それは年齢の事ではない。肉体の事ではない。精神の事である。その幼さの為に、彼は不幸になった。周りの者も、不幸になった。目茶苦茶になった。全て、目茶苦茶になった。其処には彼を救うものが何一つとして無い。彼女には彼を救えない。どの本にも、彼を救う言葉は書いていない。彼は孤独だ。既に無だ。誰にも、救われる訳が無い。

 筆者はこれ以上の事を書けなくなった。文字数もそう残されてはいない。此処でこれを終わらせるのが妥当であろう。
 そうして、彼は引き金を引く。
 僕は引き金を引く。


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