劣等感

□悪性腫瘍
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此処は暗い暗い森の中。夜には霧が掛かり、時折、木々が風に吹かれ呻き声を上げるが、まるで生物の存在を一切感じさせない。

或る都会から小さな道が続き、其れを気が遠く成る程行くと更に道が狭まり、いよいよ道が無くなった所に、此の森は存在する。
此の森を入って五分程歩いた所に、薄汚いぼろぼろの椅子が在り、此れは何とか、大人二人が座れる程度の大きさであるが、一体、誰が何の為に用意したのか全く不明である。
この森の夜は、辺りを見渡せば黒色一色で、昼間でさえ、此の椅子の存在を判別出来ない程である。だが、この古い椅子の事だ。大分昔に設置された物で、其の当時はこの森も木々の背が低く、此れ程までの闇では無かったのかも知れない。此の椅子に座り、あの遠くに在る都会さえ見えたのかも知れない。

此の森は、生物の気配を全く感じさせない。一昼夜、兎に角、静まり返っている。其の老廃している椅子を過ぎ去り更に奥へと行くと或る小屋が在り、此れも又、古臭く、何か家畜の小屋の様である。
私は此処に暮らす唯一の人間と言っても過言では無いだろう。人間と言う嘘に酷く傷付いたあの日に、私は死ぬつもりで此処へ来た。此処は自殺の名所でもあった。然し、私は死ななかった。
此処には法が無い。生きるも死ぬも、此れさえももはや無い。此の森は正に無であり、其れと同時に、自由でもあった。
ふざけた話だと憤慨するかも知れないが、私は狼を喰らい生きている。小屋に在った此の古びた鋸だけが、私の収入源と言える。鋸と共に在った煉瓦で毎日研いだ。其れはそう、生きる為に。
皮肉な物だった。死ぬ為に此処へ来た私が、今は必死で生きようとしている。人間が居ない世界。きっと、其れが良い。
狼を喰らう時には感謝をする。あの、酷く歪んだ社会に居た時には出来なかった事だ。
頭も使う様に成った。狼は群れて行動する。狩る前には主を見極め、雄と雌とを必ず逃がす。雄だけ、又は雌だけにして仕舞うのは絶対に避けなくては為らない。私が後々、食に困らない為である。

私は此の森で生活し始めてから、五感が鍛えられた気がする。狼の殺気も感じるし、時折、遠くに在るあの都会の騒々しさまで聴こえ、此れは不快である。

さて、少し早いが、今夜も夕食にしよう。
 

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