劣等感

□抛棄、のち拾得
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 彼は何もかもを捨てて生きて来た。沢山のものを、ぽいぽい捨てて来た。子供の頃によく遊んだ玩具やお人形、鼻紙、弁当の箱、割り箸、飲み物の瓶、煙草の箱、着古した和服、洋服、手帳、鉛筆、老朽化した棚や家電品、燃費ばかりが掛かる原動機付き自転車や車、壊れた電話機、本、レコード、ステレオ、楽器、その他沢山のものを、当たり前の様に捨てて来た。
 彼の捨てて来たものは、我々がしている事と同等のものであろう。いや、断言しても良い。我々と全く同じである。
 さて筆者は此処で読者に問う。捨てたものの中に、惜しいものが無かったか。無論、あると思う。筆者も、恥ずかしながらあるのだ。間違えて捨ててしまった大切なるものが、悔やまれてならぬものが、いやもう本当に、高く聳える富士山よりも沢山あるのである。
 君達は、何を捨てたのだい? 筆者は、先に挙げた彼の捨てたものに同一なるものがある。他には、昔の恋人や友人から頂いた、手紙やらお人形やら本やらキーホルダーやらがある。
 「君達は何を捨てて来たのだい?」
 それをよく思い出してから、この先を読んで頂きたい。捨てたものの中の、殊に「悔やまれてならぬもの」を。

 さて、前述した様に、彼は様々のものを捨てて来た。捨てたものの中に失念したものさえある様子。しかし生きる。その罪に気が付かず、捨てて捨てて捨て続けた。時には恋人から頂いた誕生日の贈り物の包装紙。時にはその中身も。また、恋人自体を。
 しかし彼が人間としての資格を失ったのは――或いは得たのは――或る女性を心底惚れたが故である。
 彼はしかし、心底愛したが為に捨てねばならぬ事を知った。そう、自分と居る事で、幸せにしてやりたい恋人に幸せを与えられぬと思うのである。つまり、彼にはその女は勿体無かった。その美しさに、自身は崖に追いやられるばかり、焦りに焦りを感じ、それまでして来た様に、最愛の人をさえ捨て去った。
 恋人と別れてから彼は、肩の荷が降りた様な気がした。彼は遂に、彼女から頂戴した沢山のものをごみ箱に投じた。次々と投げ込んだ。すっきりした。
 しかしその翌日、彼は物凄まじい寂しさに震える事になる。恋人との別離が原因であろう。その寂しさは、例えば空から太陽や月や星屑や青色や藍色が消えた様に真っ白な、それ程のものであった。
 彼はその日から、果たして孤独という孤独を知る事になる。とても耐えられない。
 誰でも良いから傍に居て欲しいとさえ思う。しかし彼の恋人、いや、元恋人程の存在は見当たらぬ。世界中を捜し回ったとて見付からぬであろう。それは彼自身がよく知っている。
 彼は何度も元恋人に電話を掛けようと思う。手紙でも良い。会いに行っても良い。けれども臆病者で小心者の彼は、彼女を傷付けぬ為に、また、不幸にさせぬ為にそれが出来ぬ。
 嗚呼、傷付けても、不幸にしても、愛情があればそれで二人は幸せなのだ。されども、それは彼でも心得ている。が、出来ぬのだ。彼は彼の両の手を見詰め、この小さ過ぎて汚れ切った手で何をする事が出来よう。傷付けるばかり、不幸にするばかり、愛情をさえ、壊してしまいそうなのだ。
 彼は煉獄の中に投ぜられた。煩悶す。懊悩す。まるで巨大なる鍋の中の煮え立った湯の中に茹でられている様にさえ感ぜられる。
 彼はしかし唯一の、孤独を軽減する術を見出した。
 明日はごみの日である。ごみ箱を見ると溢れんばかりのごみが息をする。彼は直ぐにその箱を引っ繰り返した。そうして、ごみの一つ一つを凝視して、
「これは彼女と、電話で話した時に涙を拭った鼻紙、これは先程に汗を拭った鼻紙…。しかしこれにも彼女への愛情が内在しているだろう。」
 彼は全てのごみをそうして拾い上げ、そのまま抱いて寝た。孤独が緩和された気がした。しかし翌日になると更に更に孤独を払拭したいと思う。やがて日々の中で捨てるべきごみが彼の部屋の中を埋め尽くした。然れどもまだ足りぬ。
「寂しいな。寂しいな。そう言えば、彼女から貰ったものをごみの日に出してしまった。どうしよう。探しに行かねば。」
 彼は近所からごみを集め出した。見覚えのある玩具やお人形、鼻紙、弁当の箱、割り箸、飲み物の瓶、煙草の箱、着古した和服、洋服、手帳、鉛筆、老朽化した棚や家電品、燃費ばかりが掛かる原動機付き自転車や車、壊れた電話機、本、レコード、ステレオ、楽器、他、様々のものを。
 彼の家や彼の家の周りはごみで埋め尽くされ、多くの媒体やダス・マンを騒がせた。彼の家には各局の報道陣が押し掛けた。
 彼は多くのごみを見詰め、
「無いなあ。彼女から貰ったハンカチーフやネクタイ、一緒にした指輪等。まだ見付からないなあ。もっと探さねば。」
 この家はごみ屋敷と呼ばれる様になった。



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