劣等感

□夢見る少女の奇妙な実験
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 少女は夢を見た。叶わぬ夢を。羽がその背中に生える夢。空を、飛ぶ夢。鳥に、なる夢。しかしそれは、鳥が人間になられぬのと同等に不可能であり、且つまた背中に羽だけを生やすのも不可能である。少女は落胆す。毎日公園の長椅子に座り、鳥の飛ぶ姿を眺めている。
 少女はとても美しい。それは美形という意味でなく、本質的な美しさを内部に所有しているという意味のものである。しかも、その横顔や瞳、唇や、華奢な手足、白い肌、背中の明いた洋服から露にされた背中等、その一つ一つが別個になりていたとするのなら、どれ程の美しさであろう。如何なる宝石もそれに敵わない。
 その所為か、少女はよく様々の人間に声を掛けられる。そうした内部の美や個別の美しさに、人々は無意識的に惹かれるのだ。
 少女に声を掛ける者には、前述した様に様々の人間が居る。少しだけ会話をしたいと申し出る者、食事や酒に付き合って欲しいと願う者、性交をしたいと大胆にも懇願する者等、いやもう兎に角声を掛けられる。
 して、その日は奇妙な男に声を掛けられた。その男は小柄で、小太り、直ぐに忘れ去ってしまいそうなアンニュイな顔、しかし目がいやに死んだ者の様に無機質の者。男は言った。
「前から君をよく見掛けるが、何時も、此処で何をしているのだい。」
 少女はその男の顔を見ず、空を舞う鴉を眺めたままに言う。
「鳥を見ていますの。」
 男は少女の視線の先に目をやった。
「鳥を、好きなのかい。」
「好き、とは少し違います。」
「どういう事だい。」
「鳥になりたいのです。」
「まさか、鳥の様に空を飛びたいだとか、羽を欲しいという訳ではあるまいね。」
「有り勝ちかしら。空を飛びたいと思っています。」
 男は此処で初めて微笑した。それはやはりとても奇妙な笑みである。男はまた口を開いた。
「もし、空を飛ぶ方法があったら、それが如何なるものであれども、君は行うかい?」
 少女は鳥から目を離し、初めて男の顔を見た。
「何ですって?」
「空を飛ぶ為には、どの様な事も出来るかい?」
 少女は暫し考え込んだ。そうした後で、
「どの様な事も…。ええ、空を飛ぶ事が出来るのであれば。」
 男は一瞬の間を置いた。
「一円はあるかい。」
「一円、ですか?」
「そう、一円だ。」
「ありますわ。」
 男は辺りを見回して、誰も居ない事を確認した後、鞄からおもむろにそれを取り出した。
「今回は特別に一円で売ってあげる。羽の生える薬だよ。」
 少女は些か男とそれを訝りながらも、一円を渡してそれを受け取る。
「また欲しくなったら、毎日、十七時から十八時の間、此処で待っているから、声を掛けて。」
 男は去った。少女も帰宅した。
 少女は机上にそれを置き、肘を付いて考えた。
「これは所謂覚醒剤。魔法の白い粉。夢を見られる素敵なお薬。でも、これは紛い物だわ。何故なら、形而上的に空を飛ぶ事が出来ても、実際には空を飛ぶ事が出来ないのだから。」
 少女はぷいと白い粉から目を逸らす。白い粉。魔法の。とても白い粉。素敵な。白い粉。魔法の。白い粉。素敵な。素敵な。魔法の。白い。粉。白くて。黒い。魔法の。粉。不思議な。粉。
 しかしそれは、ただの砂糖や塩、或いは小麦粉かも知れぬ。本物をこれまでに見た事の無い少女は、それを確かめる術を持ち合わせていない。が、砂糖や塩や小麦粉は料理で多々使った事がある。それを見るからに調味料等でない事は一目瞭然。ビニールの上からの感触でも、それはやはり明確である。
 嗚呼、魔法ノ白イ粉ニ相違無イ。
 少女の鼓動は花火のその振動よりも騒々しく高鳴った。そうして、その摂取の仕方を知らぬこの子は、人差し指をちろと舐め、白い粉をその先に付けた。指先には白い粉が吸い付いているかの如し。少女はそれを舌に運んだ。暫く味わって、それから飲み込む。その苦味をしかし少女は何にも形容する事が出来ない。少女に取ってそれは、絶妙な味だったのである。
 さて、少しづつ更に経口摂取していると、やがて恍惚感が少女を包む。それは愛する者と性交を終えた時に生ずる様な感覚であった。少女は何が無し幸福を感じた。そうして、自身がこの宇宙の中で何よりも幸福であるとさえ思う。しかし羽は生えぬ。それから連日で摂取は繰り返されたが、やはり羽は生えないのであった。して、遂に白い粉は無くなった。


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